2014年5月9日金曜日

裁判を正すには

初めに権威ありき、正義はどこにもなし、の裁判所です。
権威者を勝たせるにはどうしたらよいか、という発想しかできない構造に、頭の中がなっているようです。
権威者を勝たせるのが自分の使命と考えているようです。
ヒラメ裁判官とは斯様です。

----「裁判が日本を変える」生田暉雄著 131p
第四節 裁判のたたかいかた
主権を実現する方法としての裁判闘争で、従来一般的にされてきた裁判のやり方をそのまま踏襲しても意味がないことは明らかです。
従来のやり方との違いは、裁判の場においてもわれわれは主権者であり、主権者として振舞うということです。主権者として研ぎ澄まされた感性で、裁判官の些細な訴訟行為にも即時に反応することが肝心です。
従来の裁判を一応振り返っておきます。
①裁判官を必要以上に崇め奉る。関係者は裁判官の心証を害しないよう細心の注意をし、へりくだる。
②諸外国の10分の一の裁判官数で手抜きの裁判をするため、法律にある口頭弁論主義も「陳述します」と言えば、何十ページもの訴状・準備書面も、口頭でその内容をすべて述べたことになる。そのため裁判傍聴人にはどんな裁判かまったく解らない。
③訴訟が裁判をするに熟したと判断するか否かは、裁判所の専権に属するとして、安易に結審をして、門前払い判決をする。
④裁判所は、原告・被告の証拠収集に関する力の不衡平を平準化するための釈明等の訴訟指揮をしない。
⑤裁判は形式的真実発見ではなく、実体的な真実発見のための制度であることを理解せず、実体的真実発見の究明をしようとしない。
⑥弁護士は、裁判所に取り込まれ、裁判官がやりづらい非民主的な面(例えば、素人は発言すべきではない、心証を害するな、静かにせよ等)を、下請的に国民(依頼者、傍聴人)に命令する。軍隊でいえば将校たる裁判官に仕える下士官である。
⑦傍聴人には静かに、行儀良く、裁判の進行を静視する役割だけが与えられていて、主権者としての意思表示(例えば拍手)は許されない。足を組んで座ることさえ許されない。

しかし、裁判は、裁判官だけがするものではありません。裁判官の最も重要な役割は、法廷を自由で何でも言える雰囲気にして、原告・被告に、十分に主張・立証をさせて、言い足りないところを引き出し、それらがかみ合うようにして、争点と立証の程度が浮かび上がるようにすることです。法廷を堅苦しい雰囲気にして、言いたいことも言えなくすることではありません。
裁判は、形式的真実の追求だけでなく、実体的真実の追求が当然の前提です。そのためには、原告・被告間に、証拠資料の収集に関する力の衡平がなければなりません。力の衡平は、裁判所の釈明権の行使等でなされるものです。裁判所に、当事者の衡平と、実体的真実の発見の任務があることを、機会のある度に主張していく必要があります。
特に裁判官のヒラメ性が発揮される事件については、準備書面で裁判所の訴訟指揮に関するクレームをたびたび主張し、さらには「心証を害すること」をおそれず忌避を適切に行使し、忌避だけでなく下級審事務処理規則に基づき、高等裁判所長官、地家裁所長に当該裁判官に対する監督権の行使発動を促し、弾劾裁判所の訴追委員会に当該裁判官を訴追し、さらに国家賠償の裁判を提起する等、裁判官の民主的統制のために認められている諸手段を駆使して、裁判官にヒラメ的であってはならないと自覚させ、主権者は国民であることを理解させる必要があります
そうすればおのずから、争点、立証が明らかとなり、予断に満ちた権力者寄りの一方的な判決にはならないはずです。主張上も、証拠上も、また裁判進行上、訴訟指揮上も、裁判官に不当判決を書かせない態勢を、原告、傍聴人、さらには広く国民、弁護士が協力して作り上げるのです。裁判官に、判決は国民全体で作り上げるものだと実感させる必要があります。

当事者と弁護士の役割分担が大切です。弁護士の役割は、裁判所の下請、下士官に堕することなく、徹頭徹尾依頼者の側に立って裁判官を監視し、牽制すること、依頼者の言い分を裁判官が理解できるような文書を提出し、立証することです。他方、常識的な法律家としての弁護士には、主権の実現方法としての裁判闘争では、やれることに限界があるのです。愛媛では、そのため、わざと一部を本人訴訟、残りを弁護士依頼の訴訟として、本人訴訟で自由奔放にする面と、法律的に裁判官を牽制する面との両立を図っています。
書類等も、傍聴人に解ってもらう必要のあるものは、全文を本人訴訟の本人らが説明・朗読します。
本人訴訟の原告は、準備書面等の説明・朗読や、裁判所の訴訟指揮に対し、主権者は国民であるという観点から注文し、異議を言います。毎回、その法廷での裁判長の訴訟指揮に対する異議の準備書面、口頭弁論調書に対する異議申立等、これまでの裁判闘争にはない闘争方法をとる必要があります。書面も、本人訴訟の原告が書くことによって、これまでの裁判のカラクリが良く解ります。本人訴訟の原告の中には、今では、「裁判が趣味」 であると言い出す人さえ出てきています。
本人訴訟で自由奔放にする面に対し、相手方弁護士の異議や裁判官からの制約が入った場合に、それに対して弁護士は法律家として闘うのです。このように、これまでにはない創造的な裁判闘争を行い、弁護士と本人との任務分担をして主権実現を図るのです。このあたりの呼吸は、第七章から読み取ってください。

三 裁判傍聴人の権利も重要です。傍聴人の権利についてはこれまで突き詰めて考えられたことがありません。そのため、現状は、裁判所から、静かに行儀良く黙って見たり聴いたりする限度で許可されているのです。いわば、恩恵的措置を受けているのが現状です。しかし、裁判傍聴人の権利は:主権者の、信託を受けた公務員たる裁判官等が裁判を公明正大、適正に行っているかどうかについて、監視する権利がその本質です。公文書公開請求権などとその根底を共通にする主権者としての権利です。
裁判官は独立が保障され(憲七八条)、法律及び良心に従うことだけが要求されていて(憲七六条三項)、上司の統制等を受けません。そこで主権者の裁判を監視する権利が重要になるのです。公明正大、適正な裁判をしていない場合は、裁判官弾劾裁判所の訴追委員会へ裁判官の弾劾を訴追できる(裁判官弾劾法一五条) のです。
裁判監視権者としての傍聴人は、監視権に当然に伴う意思表示ができなければなりません。
①裁判中に拍手をすること等の意思表示をすることは当然できるといわなければなりません。
②遺影を持っての傍聴も当然できます。
③裁判開始前に、関係者の肖像権を侵害しない法廷の撮影も当然可能です。
④裁判官(長)の声が小さ過ぎる場合は、聞こえるように要求することができます。

裁判は江戸時代、明治時代の延長としての聴覚だけを利用する方法で運用されています。スクリーン等の映像、法廷と外部とをインターネットで接続する等、ITや視覚利用等を一切していません。このような時代不相応の方法をとっていては、裁判を、公明正大、適正にしているとはいえません。傍聴人、当事者は、時代に相応しだ公明正大で適正手続に従った映像、IT等を利用すべきことを裁判所に要求できるものと考えるべきです。
問題は、傍聴人が当事者に書面を説明あるいは朗読するよう要求する権利があるかどうかです。
日本では、裁判官数がヨーロッパ先進諸国の10分の一です。満足を裁判ができるはずがありません。為政者は:王権者が裁判を利用しにくくしているのです。そのような、適正手続違反の裁判統制に従う必要はありません。
傍聴人は、裁判監視権に基づいて裁判を傍聴するので、原・被告どちらの側に対しても書類の説明・朗読を要求し、裁判所にそれを求めることができなければなりません。
裁判所が当事者に書類の説明・朗読の時間を与えないときは、公明正大性違反、適正手続違反の裁判になります。傍聴人は裁判監視権に基づいて裁判所に、十分な時間を取った裁判を要求できます。国民の知る権利に仕える取材陣、新聞記者等も、当事者も、もちろんできます。傍聴権の本質は裁判監視権なので、現実に裁判を傍聴していない裁判当事者も、傍聴人の立場に立った意見を代弁することができます。
今後、傍聴人の裁判監視権の内容を深めることが必要です。そして、裁判当事者と傍聴人の連携が主権の実現としての裁判闘争には不可欠になります。
四 日本で現在行われていることは、世界的基準で見ると、相当遅れているということを自覚しなければなりません。
法律の雑誌でも、遅れている日本の人権感覚(藤田泰弘「国民の憲法意識-日本とアメリカI」判例タイムズ一二二吾了七六頁)が当たり前に言われているのは情けないことです。それでも為政者は国民の人権意識の向上、裁判闘争をおそれて「人権だけを食べ過ぎれば日本社会は人権メタポリック症候群になる」(伊吹文部科学桐の岐崎における自民党大会での発言、二〇〇七年二月二七日、朝日新聞社説)などといって、国民が人権に目覚め、裁判に関心を寄せることに対する牽制を常にしているのです。

第五節 裁判官の牽制・監視・コントロール
ヒラメ裁判官は、十分な審理を嫌い、民訴法二四三条の 「裁判所は、訴訟が裁判をするのに熟したときは終局判決をする」という規定を無視して早くに終結し、判決言渡日を決めようとします。
十分な主張・立証がされない段階で早々と結審されて、門前払い判決をされた後に、週刊誌等で「不当と腐敗に目をふさぐ○○地裁の門前払い判決」といった記事を目にすることがよくあります。しかし、これは、主権の行使としての裁判の利用方法が十分ではなかったことを国民自身が認めていることでもあるのです。恥ずかしい国民の自白です。たとえ、ヒラメ裁判官であっても、十分な裁判をさせるための制度があるのに国民がこれを使いこなしていないのです。
「民訴法」・「刑訴法」 に裁判官の忌避、「下級裁判所事務処理規則」 に裁判官の事務の取扱い及び行状に対する注意を与える権限、「裁判官分限法」に裁判官の懲戒権、「裁判官弾劾法」に裁判官の罷免、「国家賠償法」 による裁判官に対する国家賠償と、主権者が裁判官をコントロールできる手段が規定されています。国民はこれらの規定を十分活用して、裁判官に不当判決をさせないようにすべきなのです。
これまで日本では、「裁判官の心証を害してはならない」等、当局寄りのマインドコントロールに国民が洗脳されて、国民が主権者として、全体の奉仕者である裁判官を監視・牽制・コントロールする方法の行使を怠ってきました。
裁判制度を主権の行使の一方法とするといっても、ヒラメ裁判官に対する違法判決対策を欠いていては、「画竜点晴を欠く」ことになります。裁判官に違法判決をさせない方法が、以下述べる「四点セット」 です。

忌避(四点セットの1)
忌避とは、裁判官の一人よがりの違法な裁判に対し:主権者としての立場から、本来のあるべき裁判をさせるため、当該裁判官を裁判から手を引かせて交替させるための手段(民訴法二四条、刑訴法二一条)です。
忌避申立に対する判断は同僚のヒラメ裁判官がするので、認められることはありません。しかし、抗告(高裁)、上告(最高裁)まで必ずします。
ヒラメ裁判官は、他の裁判官の評価を非常に気にします。「忌避をされるような下手くそな裁判をして」という他の裁判官の評価を恐れているのです。そこで、忌避をして、二度と忌避されたくないという心理にさせるのです。
地裁所長・高裁長官の監督責任追及(四点セットの二)
下級裁判所事務処理規則(二一条)によれば、地裁所長・高裁長官に裁判官の監督権限があり、事務の取扱い及び行状に注意を与える権限があります。また裁判官分限法三条では、高裁長官に裁判官の懲戒権を与えています。
そこで、このような不当判決をしようとする裁判官に対し、監督権・懲戒権を行使して注意するよう申立をするのです。
弾劾裁判所への裁判官の弾劾の申立(四点セットの三)
裁判官の罷免は、国会の弾劾裁判所によらなければなりません(裁判官弾劾法一条、二条)。同法一五条で「何人も裁判官について弾劾による罷免の事由があると思料するときは、訴追委員会に対し、罷免の訴追をすべきことを求めることができる」と規定されています。
そこで、弾劾裁判所の訴追委員会に裁判官の訴追を申し立てるのです。同法二条で罷免の事由があると思料するときは訴追委員会は調査しなければなりません。このような調査等により、裁判官に違法な判決をさせない圧力をかけるのです。
裁判官に対する国家賠償の請求(四点セットの四)
国家賠償法一条は、「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と規定していて、違法な裁判をした裁判官の責任を、国に問うことができます。
例によって最高裁は、国民の主権の行使をできるだけ制約しようとして、公務員個人、裁判官個人に対して責任を問うことはできず、国に対して責任を問わなければならないという判例を作っています(一九七八年=昭和五三年)。しかし、東京地裁の判決等で、この最高裁判決に反対の判決もあります。
国家賠償訴訟を起こす意義は、訴自体でヒラメ裁判官の違法判決を牽制するだけでなく、一方で、同一事件の実質的被告であるヒラメ裁判官が、本来の訴に対して判決を宣告する裁判官となり得るのか、という問題を提起することになります。国家賠償提起後(したがって、国家賠償はすみやかに本来の判決宣告までに提起する必要がある)、本来の裁判の判決を宣告しようとするヒラメ裁判官に対し、さらに国家賠償提起を理由とする第二次の忌避申立をし、この忌避も最高裁まで争います。

このように、筋単に門前払いの違法判決をしようとしても、それは簡単ではないということを、ヒラメ裁判官に自覚させるのです。
ヒラメ裁判官に、裁判とは、それ自体が内在している必要な審理をすべて履行しなければ(これが民訴法243条の、判決に熟したということでもあります)できないものであると自覚させるのです。必要な審理をすれば、権力者寄りの判決など、簡単にできるものではないのです。
以上のように、主権の実現のための裁判制度の利用自体簡単なことではないのに、その上、次にヒラメ裁判官の違法判決防止の「四点セット」を行使するためには、相当の気力の充実が要求されます。
日本では、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と、権力者の言いなりになり、国民は主権の行使を怠ってきました。その付けを現在の我々が払わされているので、簡単ではありません。
いかに苦しくても、泣き寝入りしないためには、四点セットの行使しか方法がありません。多くの人が四点セットを行使すれば、事実上ヒラメ裁判官は早期になくなります。多くのヒラメ裁判官もヒラメをしたくてしているのではないのです。ヒラメをしないために国民的バックアップを欲しています。それがこの四点セットでもあるのです。
先進諸国の中で「ヒラメ裁判官」の存在、「門前払い判決」が言われているのは、日本だけです。
その上、日本では裁判の利用自体、非常に困難をしいられています。このような日本における不当な制度(これが格差社会の遠因でもあります)を打破するため、主権の実現としての裁判権の行使と、ヒラメ裁判官の不当判決に対する「四点セット」 の行使を、今少しの期間は我慢して行使しなければならないのです。


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