2014年3月4日火曜日

陪審制しかないのではないか

「陪審はアメリカの司法の不可欠な要素として根付いているのである。アメリカの市民にとって、陪審制への信頼度は、弁護士、裁判官、合衆国議会、合衆国最高裁判所のいずれへの信頼度よりも高い。また、自分自身の民事訴訟に関するトライアルであれば陪審審理と裁判官のみによる審理のどちらを望むか、という問いを連邦裁判官にしたときも、8対1の圧倒的多数で陪審審理を選んだのである。」アメリカ民事手続法 浅香 吉幹


医療訴訟における司法界の組織的な隠蔽工作
日本の裁判の民主化は、諸外国のように民事訴訟の陪審制しかないのではないかとの感を強くした。

民亊分野での陪審制の導入が必要

○ 陪審制度は世界的に見て拡大傾向にあるのか、それとも縮小傾向にあるのか。 
 (回答<最高裁>:イギリスにおいては、陪審の対象となる事件は、民事、刑事ともに縮小される傾向にあり、また大陸法系の国でも陪審制度から参審制度への移行が見られ、全体として見れば縮小傾向にあると考えている。) 
 (回答<日弁連>:陪審制度を採る国が数多く上っていることが日弁連の調査で判明し、特に、スペインやロシアでは最近陪審制度を復活させるなどの動きが認められ、日弁連としては世界的には拡大傾向にあると考えられている。)

○ 陪審制度の実現に向けての提言

トクヴィルの「アメリカの民主政治」より:
「陪審を司法制度として考察するだけでは、その思想を著しく狭めることであろう。なぜかというと陪審は、訴訟のいきさつに重大な影響を及ぼすものとしても、それはより一層重大な影響を社会自体の運命に及ぼすからである。それゆえに、陪審は何よりもまず第一に政治制度なのである。
陪審は人々に私事以外のことに専念させるように強いることによって、社会のかびのようなものである個人の自己本位主義と闘う。
陪審は驚くほどに人民の審判力を育成し、その自然的叡智をふやすように役立つのである。これこそは陪審の最大の長所だと、わたくしには思われるのである。陪審は無料の、そして常に公開されている学校のようなものである。」

『代議制統治論』ジョン・スチュアート・ミルより:
[知的部分に対してだけでなく]なお一層有益なことは、私人としての市民がまれにではあっても公共的職務に参加することによって与えられる教訓の道徳的な部分である。かれはそれに従事しているときに、かれ自身のではない諸利害を秤量すること、相争う主張がある場合にかれの私的な依怙贔屓ではない規則によって導かれること、また、共通善を存在理由とする原理や原則をつねに適用すること、を求められる。そして、かれは、かれ自身の精神よりもこれらの観念や作業に精通した精神をもった人びとが、同じ仕事の中でかれと結びついていることを、知るのがふつうであり、…、自らを公共の一人と感じるように、またかれらの利害はなんでも自分の利害だと感じるようにされる。このような公共精神の学校(陪審制)が存在しないところでは、社会的地位の高くない私人たちが、法律に従い統治に服従することの他に、何らかの義務を社会に負うという感覚は、ほとんど何も抱かれないのである。そこには公共への同一化という非利己的な感情がない。…その人は決して、どんな集合的利害についても、他人と協同して追求されるべきどんな目的についても思考することなく、かれらと競争して、ある程度かれらを犠牲にして追求されるべきものしか、思考しないのである。」

政治制度としての陪審制-戦前日本の経験に照らして-

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