2015年4月7日火曜日

びっくり判決だらけの日本の暴力裁判

不意打ち判決、びっくり判決とはもっと例外的で、全く取り上げられなかった争点が判決にあらわれるようなことか (例えばこの判決書)と思ってましたが、以下のドイツの法的聴聞権基準によれば、日本の裁判はほとんどすべてがびっくり裁判といえます。獣裁判でなければ、奴隷裁判です。人間の尊厳というものが全くないだけでなく、尊厳を蹴散らすことしかしていません。獣裁判所です。裁判官が奴隷なのですからそうならざるをえないのです。裁判ではなく、暴力なのです。その本質は。

手続保障としての「裁判を受ける権利」
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最終口頭弁論の終了時に確定した原告の陳述内容が判決を求める内容であって、それ以前はすべて準備段階であること。

善解の可能性があるにも関わらず善解をしない場合には配慮義務違反であること。


「善解」など親切な訴訟は基本的に法治国家原則と裁判を受ける権利から導かれること。

裁判長は係争事案を当事者と事実及び法について討論しなければならないこと。

裁判所の法的な考慮を決定前に聞き知り、これに影響を及ぽしうるようにさせることを裁判所に義務づけて初めて聴聞が「法的」になること。

単なる公正な聴聞(fair hearing)ではなく、当事者が裁判手続の中で能動的に影響をもちうるものでなければならないこと。

ドイツ憲法裁判所は、裁判手続を人間化し社会的に造り直すという意味で権威的官僚主義的行為様式を相当に変えることに貢献し、法的聴聞の環庇を理由とする破棄判決を下してきたこと。

裁判所は口頭弁論の終了時に、従来述べられた事実が裁判所によって法的にどう評価される見込みがあるか、どのように決定される見込みであるか、 ないしいかなる法的解釈を裁判所は決定の基礎とするであろうかを公表し、これにより当事者にその主張を補う機会を再度与えることが必要であること。

口頭弁論では裁判官が重要と考える法的争点を示し、 両当事者にとっての「びっくり判決」は防止されなければならないこと。

裁判所は口頭弁論の中で自己の暫定的見解を両当事者に知らせ 、びっくり判決を避け、必要があればさらに補足の主張を許さなければならないこと。

----木佐茂男著「人間の尊厳と司法権」より

(2)訴訟物と善解・訴えの変更
(イ)訴訟物論
すでに触れたように、西ドイツの行政訴訟の訴訟物論には解釈論的実益は相当に少なく、取消訴訟に関して、しかも後の国家賠償訴訟との関係でのみ存在し、訴えの併合や変更も訴訟物とはほとんど関わりがないようである。しばしば引用される連邦行政裁判所の判例もさして意味のある訴訟物論を展開しているわけではなく、本稿で利用している注釈書類でもその重要性をうかがえない。

まず、行政訴訟の特殊な性格から、訴訟提起の段階では訴訟物の特定は要求されない。原告の申立ては口頭弁論の終了時までに調書に記載されて確定する190) 。これは、法的に練達していない原告のための配慮である。すなわち、訴状の必要的記載事項としての訴訟物(Streitgegenstand) (§79 82VwGO)は、行政行為を掲記する。または事件(Sache) を特定することで十分である。同様に、訴状に記すべき「申立(Antrag) 」は、訴訟の目的(Ziel)が十分に認識できることで足りる194)。連邦財政裁判所は1979年に、口頭弁論終結時までに特定の申立がなくても却下にはならず、訴えの目的が十分明確であればよいとし、従前の争いに決着をつけた。控訴にあっても控訴状における申立内容の特定としては控訴の目的が認識できる程度のもので十分である。

(ロ)善解と訴えの変更
訴えの変更も柔軟である。注釈書類によると、訴えの変更は請求(Kiagebegehren) )または請求原因(Klagegrund)が変更される場合に行われる。請求原因の変更がなくとも原告が明確に特定した申立が新解釈のできない申立に変更される場合も訴えの変更にあたる。だが、一般に申立の変更は民事訴訟と異なり訴訟物の変更を意味せず、原告の請求内容の解釈問題とされるうえに、仮に「訴えの変更」に相当するケースでも実務の扱いはほとんど無形式なのである。実務においては口頭弁論の際に原告の主張を確かめ、訴状の表記と異なる訴訟類型が正しいものと判断すると、書記官(といっても筆者の見た限り例外なく若い女性)に命じて調書に記載させる。それで一件落着である。インタヴューによると昔はこうではなかったそうである。ところで、このような実務は「訴えの変更」なのか「善解」なのか、それともそれ以前の問題であろうか。裁判官であれ研究者であれ答えに窮してしまった。
そもそも無効事由があるとき原告は取消訴訟と確認訴訟のいずれでも提起できたり、無効確認訴訟が取消訴訟もしくは事後違法確認訴訟(本書340頁)として扱われるように、訴訟類型の選択は択一排他的ではない。また、すでに見たように、社会裁判権では行政庁に申し立てられた異議は、場合によっては行政訴訟の提起として解釈されうる。執行停止と仮命令は、いずれの申立と書いてなくてもよく、仮に特定してあっても希望にしたがって善解される[Wehrl]。こうした状況であるから、理論的説明は容易ではない。次のようなコメントがあった。
「裁判所の口頭弁論において、初めて原告の請求が解釈されるのであって、申立の変更ではなく、その意味でそもそも善解ではない。行政裁判官歴の長いKoppは「厳格に考えると…・・」と言ってつまったのち、「最終口頭弁論の終了時に確定した原告の陳述内容が判決を求める内容であってそれ以前はすべて準備段階である」と述べる。「訴えの変更と善解の関係について、ほとんどドクマティッシュなところはない。裁判官は事件の前後関係の全体を明確にし、原告の申立を解釈可能(auslegungsfahig)と見て、原告の意図にそった処理をしていく」。すなわち、訴訟類型は、請求ないし申立(Begehrenbzw. Antrag)から、裁判官が読み取らなければならいのである。
社会裁判権でも原告は訴訟形式をおよそ特定する必要はなく、例えば「私は、障害手当が欲しい」と書いてあれば十分で、被告が記されていなくても構わない。「我々(裁判官)は、何が問題なのかを解釈しなければならない。」そのようなケースが「全く通常のものである(ganz normal)]
* von Wulifen R よると、社会裁判権では理論的には取消訴訟と義務づけ訴訟が結びついている場合が通常で、全事件の80%をしめる。純粋な取消訴訟、確認訴訟、給付訴訟は総計20%程度である。取消訴訟と給付訴訟が結合した形のものもある。
仮に、訴えの変更となる場合でもそれが原告の裁判を受ける権利を保障するにふさわしいと考えられると、「裁判所が変更を適切(sachdienlich) と考えるとき(§91 I VwGO,§99 I SGG )にあたるものとされる[多数の行政裁判官]。変更の手続は調書に簡単にメモが記載されて終りであり、「全く簡単である」[上級行政裁判所判事Konrad] 被告行政庁の同意は不要である。訴えの変更一般は2 審でも可能であり、原告が1審で勝訴している場合には裁判所は職権探知原則で対応をする。控訴審での被告の変更も判例通説は認めている。

(ハ)善解の事例
行政裁判所法88 条によると、「裁判所は訴えによる請求を越えることは許されない。但し、申立の文言に拘東されない」。これは処分主義の表現である。裁判所は、最終口頭弁論の時点で弁論の全趣旨に基づいて示される認識可能な原告の目的にのみ拘束される。原告の意志が十分明確で、保護に値する第三者の利益が対立しない限り、裁判所は解釈を変えることができる。例えば公務員の配置転換(Umsetzung)が行政行為かどうかは明確でない。配置転換された公務員がこれの取消訴訟を提起したものの裁判所の見解によれば処分性がないという場合、弁論全体から彼の目的を判断して、一般給付訴訟として審理される。 その他の善解の事件を紹介しよう。事後違法確認訴訟から一般給付訴訟への移行は訴えの変更ではない。給付訴訟は事情によっては不作為の違法確認訴訟に解釈さるべきである。取消訴訟として提起された訴訟を義務づけ訴訟に、あるいはその逆に解釈を換えることは、それが認識可能な訴訟目的に対応しているならば原則として可能であり、かっ要請されている。いいかえれば、取消訴訟と義務づけ訴訟のいずれで争ってもいい場合がある。また、条件などの付款に不満がある場合には訴訟類型の特定が難しいが、原告の意志に即した解釈を裁判官がしなければならない。さらに、例えば一定金額の支払を求める一般給付訴訟を給付決定の義務づけ訴訟またはそれに類似の訴訟として、建築許可に関する取消訴訟を同時になお争いうる建築予備決定に対するものとしても扱うことができ、取消訴訟を、給付訴訟、一般確認訴訟もしくは無効確認訴訟として、義務づけ訴訟を確認訴訟として、行政行為のある部分に対する取消訴訟を新たな行政行為を求める義務づけ訴訟として、義務づけ訴訟を結果除去請求を伴う取消訴訟として解釈できる。したがって、学問的には、ある処分の争い方につき取消訴訟か義務づけ訴訟かというような議論はあるが、原告にはいずれの訴訟を提起しようと却下の恐れはないと言える。
善解の可能性があるにも関わらず善解をしない場合には指示義務違反として重要な手続の理庇となる[Badura] )
善解の余地を狭く認める学説もあるが、その際に障害とされる不服審査前置の要件が、既述のように、連邦行政裁判所の実務では被告の応訴をもって満たされるとされていることに注意してよい。また、仮に善解で処理しうる限度を越えると解される場合でも、訴えの変更が簡単であることはすでに述べた。(357)
---(中略)

(ハ)法的聴聞と配慮義務
①法的聴聞(「法的対話」Rechtsgesprach) 繰り返し指摘してきたように、 基本法1031項の定める法的聴聞は法治国家原則と人間の尊厳を具体化した規定である。これは基本法194項の定める権利保護の保障を完成させるもので、人間を裁判手続の客体におとしめないことを目的とする244)。この原則は、容易に理解されるように、公権力を相手方とし職権探知主義が適用される権利保護訴訟手続においては特に意味をもつ。行政裁判所法は、104条で、「裁判長は係争事案を当事者と事実及び法について討論(erorternしなければならない」として具体化している。
法的聴聞に関しては日本でもしばしば言及される1959年のA.Arndt の以下のような趣旨の2つの論稿が非常に有名である。「法的聴聞は事実に関してのみならず法の側面についても及ばなければ法的聴聞そのものの拒否に至る。裁判所で法的聴聞を得る基本権は何らかの発言請求権ではない。聴聞の概念には聞き入れてもらう期待権がある。裁判所の法的な考慮を決定前に聞き知り、これに影響を及ぽしうるようにさせることを裁判所に義務づけて初めて聴聞が「法的」になる」。かかる理念の延長上で、連邦憲法裁判所は単なる公正な聴聞(fair hearing)ではなく、当事者が裁判手続の中で能動的に影響をもちうるものでなければならないという考え方を展開してきた。これは社会的法治国家の配慮義務の表現247〉とも言われる。この経緯を見ると、法的聴聞という訳語よりも、直訳である 「法的対話」の方が、現在の語感に近いように思われる。Wassermann は、これまでの連邦憲法裁判所の判例の意義を、「裁判手続の官僚化傾向に有効に対処したこと、裁判手続を人間化し社会的に造り直すという意味で権威的官僚主義的行為様式を相当に変えることに貢献したこと」にみている。連邦行政裁判所も法的聴聞の環庇を理由とする破棄判決を下してきた
今、ここでは法的聴聞の内容の子細を紹介することはできない。1例をあげてその広がりを示しておく。資力がないために弁護士をつけれない場合や障害者であるため弁護士なしでは訴訟が維持できない場合に法律扶助が拒否されると、法的聴聞原則の違反になりうるとされる。
②配慮義務 法的聴聞の原則はしかし、配慮原則とも密接に結びついている。法問題の討論なくして適切な申立は不可能だからである
行政裁判所法863項は、「裁判長は、関係人が、形式の不備を除去し、不明確な申立を明確にし、適切な申立をし、事実の不十分な開示を補充し、かつ事実関係の確定および判断のために重要なすべての陳述をするように努めなければならない」とする。同項と104条は、決して行政系訴訟に特有の規定ではない。次のような見解があった。1863項は弁論主義の表現であり、 104条も民事訴訟法139条と全く同一であって、職権探知原則と弁論主義が相互に強く接近している」[教授Maurer] 。あるいは、1861項の職権探知主義と3項の配慮原則は論理的に関係があり、配慮原則は部分的に民訴法139 条の一部であって、104条は民訴の139条に対応する」[Hanisch] 。興味深いのは、バイェルン州上級行政裁判所裁判官たちが、少しだけ伝統的発想に近いと思われる説明をしたことである。1863項は同条1項だけからではなく、 民訴139条からも来ている。1041項は広義での職権調査原則からくるが、 定かではなく、民訴でも類似の運用があってそれは積極的に行われている。 今日では職権主義と弁論主義の限界は明確には定められない。104条の規定はやや弁論主義に近づいている」[Lazik, Wittmann, Hoecht}。ともかく、今日では配慮義務は後見監督的原則ではなく、また民事訴訟と異なる原則とはほとんど考えられていないのである
この配慮義務を通じて行われる法的対話は、1審・2審の行政訴訟では弁護士強制がないために、民事訴訟以上に重要である。この原則の独自の意義は、とりわけ原告の実体法上の権利の実現を援助することにある「行政事件では官庁が有利な地位と大きな専門的知識をもっていて対等性を欠くから、配慮義務は大変重要である。とりわけ訴訟類型が多いし、複雑なので意味がある。裁判官は指示しなければならない。」[Maurer] 。連邦行政裁判所は、この原則を次のように敷術する。「不明確な申請であることが説明され、 もしくは訴状の中で表現された請求(Begehren =希望)を手がかりにして適切な申立がなされること、これを指示することは裁判長の義務である。
(原告により特定された)申立文言について疑念を示し、彼に別の文言の申立てをする機会を与えるだけでは十分ではない」。同項の義務は「申立を正しく表現することの援助にとどまらず、場合によっては、弁護士によって代理される必要のない原告と彼の希望に従って不明確な点を明らかにする討論をした後に、申立を表現するための援助をすることを内容とする」、と。
いま少し、裁判長の指示義務=配慮義務の内容を判例に即してみておこう。 この義務は、手続の適切な実施を容易にするということのみならず、当事者に帰属する手続上の権利や実体上の請求権が不慣れや法知識の欠如のために実現されないということを防ぐという目的を持つ。裁判長は、当事者に対して、彼らに帰属する法的可能性の枠内で希望する目的を最も適切に、かつ最も合目的的に達成することのできる正しい道を、訴えの変更も含めて教示し、必要と思慮される場合には、例えばその申立内容の訴訟技術的表現 (Formlierung) にあたって援助すべきものである。このことは手続法上の点のみならず、当事者の事実に関する陳述についても妥当する。例えば当事者が裁判所からみて明らかに誤った事実については補わせなければならない
次のような措置について、かつての行政裁判官連盟議長Hoecht はこれを義務であるとし、連邦行政裁判所長官Sendler は、訴訟当事者が感謝するとともに訴訟が迅速になるとしている。ただし、連邦行政裁判所は、それらが法的に要請されるとまでは述べてはいない。これらの措置とは、裁判所が口頭弁論の終了時に、従来述べられた事実が合議の際に裁判所によって法的にどう評価される見込みがあるか、どのように決定される見込みであるか、 ないしいかなる法的解釈を裁判所は決定の基礎とするであろうかを公表し、これにより当事者に場合によってはその主張を補う機会を再度与えるというものである。判例がこれらの対応を裁判所の義務であるとまではなお言っていないとしても、高い地位にある裁判官が勧めていることから窺われるように、法的対話はすでに相当程度実行されているのである。
なお、仮の救済のあることを知らない原告のために、緊急の場合には、裁判所が863項を類推適用して、仮の権利保護を拡張的に付与すべきであるとの有力な見解がある
③法的対話の努力 確かに、法的聴聞・法的討論は何でも含み得るものであって、ある意味では理論的な輪郭を見いだし難い。しかし、そうであるからといって法的聴聞や法的討論を避けるべきであるということにはならないであろう。口頭弁論では裁判官が重要と考える法的争点が示されるから、 両当事者にとっての「びっくり判決」はほとんど考えられない。実務家は 「疑わしきは法的聴聞(im Zweifel rechtliches Geh6r)」、あるいは「理論的には難しかろうと、法的聴聞の努力が大切」[Vallender] という。さらに「必ず法的聴聞を行う」[リューネプルク上級行政裁判所長官D6rifier, Stotzel]とか、「われわれにあっては(西ドイツでは)、不意打ち判決=びっくり判決は全くない[Brohm, von Wulifen, Hanisch]という声を聞いた。
④弁護士が代理をしている場合 弁護士が原告を代理しているとき、裁判官の指示・配慮義務が縮減されるかどうかについては争いがある。民事訴訟でも弁護士に代理されている場合にはその主張に一貫性がないことの指示義務はないという最高判例がでたが、これに対しては消極的評価が多いようである。連邦行政裁判所も弁護士の責任をやや厳しくみる判決を出している。他方、弁護士により代理されている場合であっても同一の配慮が必要であるとする判例もある。
筆者の面接の限りでは、現役裁判官は、「当事者がその代理人の未熟・無能力のために「処罰」されてはならない」[Pakuscher] 、という。長官たちは次のように述べる。「社会裁判権で弁護士が原告を代理をしているときは、手続上弁護士は原告本人訴訟の場合よりも厳しく対応される。しかし、弁護士も社会法の領域では法的知識がないので、その点では法的対話も本人訴訟と同じようにしなければならない」[von Wulffen]0「行政裁判権でも訴訟要件上の問題はともかく法的に複雑な問題の時には弁護士により代理されているかどうかは関係ない」[Wehrl]。このような考え方により、弁護士により代理されていたために、例えば訴訟類型の特定問題などで、不利な扱いを受けることはないのである。
(4)小括
以上に見たように、「善解」など親切な訴訟は基本的に法治国家原則と裁判を受ける権利、副次的に社会国家原則から導かれている。「仮に職権探知原則や配慮原則を定めた実定訴訟法の規定がなくても、これらは憲法規範から導くことができる[Pitschas] と考えられている。訴訟の後始末も親切である。 社会裁判権では、「出訴期間の徒過により裁判官の判断としては却下せざるをえないときには、争訟手続の再開事由を説明し、判決書に記載する。本案についても具体的に何が欠けているかをわかりやすく示す[von Wulifen]のだそうである。この節では、人間の尊厳を手続法に反映させる裁判官の努力の見本を見たと整理することも許されるであろう。
(中略)

すなわち、「これまで行政裁判所は職権調査原則や配慮原則の適用にあたって原告=市民のためにのみ援助をしてきたのではなく、両当事者のために努力してきた。従って、参加負担の強調がなされても今後何かが変わらなければならないというものではない」[連邦特許裁判所長官Pakuscher] [同旨、教授Badura] 。従来から、裁判所はニュートラルに審理してきたのであり、裁判所の配慮義務は「われわれの裁判権の非常に重要な礎柱ganz weseritlicher Grundpfeiler)である」[Pakuscher]「今後とも裁判所の職権主義は縮小解釈されてはならない。なぜならこの裁判所の義務を通じて、裁判所は口頭弁論の中で自己の暫定的見解を両当事者に知らせて(unterrichten) 、びっくり判決を避け、必要があればさらに補足の主張を許すことができるのであるから」[Pakuscher]
このように西ドイツ行政裁判の常態となっている「親切な」手続は、参加負担の強調によっても、容易には揺るがないように思われる。(379p)
行政事件からみた親切な訴訟「人間の尊厳と司法権」木佐茂男著 ()

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