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平成26年4月7日
平成26年(行ク)第3号裁判官に対する除斥の申立事件
-(基本事件平成25年(行ウ)第6号公務談合損失補填請求事件)原告 岷民蟬
福岡高等裁判所宮崎支部 御中
抗 告 状
抗告人 岷民蟬
信
頭書事件について、宮崎地方裁判所、 判事瀧岡俊文、島田尚人、伊藤達也による、平成26年3月28日の決定について、抗告する。
(原決定の表示)
本件申立を却下する。
抗告の趣旨
1.
原決定を取り消す。
との決定を求める。
抗告の理由
1. 法令の解釈に誤りがある。民訴法23条1項5号の「事件」の解釈に誤りがある。
決定者は、「事件」を限定解釈しようとしている。特に限定的に解釈する必要はない。
当事者を含む全行政機関の代理人であった経歴により、客観的な公正らしさを疑われる事由があるか否かで判断されるべきである。
訟務検事として、当事者行政機関の代理人であった経歴を有することのみで、行政機関の有利に裁判するであろうことは十分予測できることである。
昨日まで行政機関の代理人であった者が、今日は裁判官になり、行政機関の裁判を担当し、明日はまた行政機関の代理人となりうるような場合は、不公正な裁判とならざるをえないのであるから、そのような不公正な裁判が防止されるような解釈が可能であるならば、そのように解釈されなければならない。
「当事者の代理人又は補佐人であるとき、又はあったとき」が事実であるならば、「事件について」の解釈は、却下することを目的として解釈されてはならない。その事実を除斥の理由としないようにするために解釈することはできない。善解義務違反である。信義則違反である。「その事件の当事者の」と解釈できる。
決定書: こうした具体的な事件と離れて,単に当該裁判官が過去にいわゆる訟務検事として訴訟事件等の代理人となった経歴を有するにすぎないような場合が同号の事由に該当しないことは明らかというべきである。
該当しないことではなく、該当することが明らかである。
「経歴を有するにすぎない」とは過小評価である。そのような経歴を有することのみで十分である。
本件事件において、当事者とは、被告延岡市長、延岡市である。訟務検事の任務は、国、地方公共団体その他の行政機関の弁護であり、被告も行政機関の一つである。内藤裕之判事は全行政機関の代理人であった経歴を6年以上有するのであるから、本件事件において、民訴法23条1項5号に該当する。1度のみ、3年間のみならず、2度にわたり6年間も被告行政機関の弁護人を務めたことは、今後も継続的に行政機関の弁護人となる可能性があるということであり、行政機関に所属する人物とみなされざるをえない。明日にでも行政機関の弁護人となりうる立場の人物である。
訟務検事とは要するに、企業内弁護士と同じである。(甲5) 一企業の社内弁護士として6年間あらゆる種類の事件の弁護活動を担当し、その企業組織と喜憂を共にした後、裁判官に任官したような場合、その会社が当事者である事件の裁判を担当することができるとは考えられない。身内と同じである。家族と同じである。同居の親族と同じである。配偶者と同じである。共同権利者、共同義務者である。利益共同体と同じである。民訴法23条の除斥理由1号、及び2号に該当する。
また、当事者の後見人、後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人又は補助監督人にも相当するから、3号にも該当する。いつでも行政機関の弁護のために駆りだされる運命にある人物である。
内藤裕之判事は過去に2回訟務検事として派遣されており、将来いつなんどき訟務検事として再び三度行政機関に派遣されるかわからない立場である。そのような立場にある判事が派遣先の行政機関の利益に反する公正な裁判をすることができると考えることは不可能である。
企業内弁護士と同様に、行政機関の内部で3年ずつ、6年間弁護活動に専念していた裁判官が、裁判所に戻って、当事者が行政機関である事件の裁判を担当することは、健全な公正感覚を損なうものである。国民に対する信義則違反である。民法1条違反である。民訴法2条違反である。憲法31条、32条違反である。公正な裁判を受ける権理の侵害である。憲法76条3項違反である。
2. 民訴法23条1項1号に該当する。「当事者と共同権利者、共同義務者の関係にあるとき。」に該当する。行政機関に雇用され、行政機関に報酬をもらい、行政機関の利害弁護人であったこと、明日にでも行政機関の弁護人に任命されうるということは、行政機関の共同権利者の関係にあるということができる。
3. デュー・プロセス、適正手続保障は,仮に現実的偏見が一切認められない場合であっても,その危険が存在するならば、なお裁判官の回避を要求するものである。
少なくとも当事者の一方が除斥事由を主張している場合は、交代可能な裁判官は無数にいるのであるから、すみやかに除斥されるべきである。客観的公正らしさを保ち、国民の裁判所に対する信頼を損なわないようにするために必要な措置である。
故に、抗告の趣旨どおりの決定を求める。
追って理由を補充する。
市民的政治的権理国際規約14条1 すべての者は、裁判所の前に平等とする。すべての者は、その刑事上の罪の決定又は民事上の権理及び義務の争いについての決定のため、法律で設置された、権限のある、独立の、かつ、公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権理を有する。
附属書類: 甲5号証 衆議院 -法務委員会-5号 平成17年10月14日 議事録
以上
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平成26年4月22日
平成26年(行ク)第3号裁判官に対する除斥の申立事件
-(基本事件平成25年(行ウ)第6号公務談合損失補填請求事件)原告 岷民蟬
福岡高等裁判所宮崎支部 御中
抗 告 理 由 補 充 書
抗告人 岷民蟬
信
頭書事件について、抗告理由を補充する。
抗告理由の補充
1. 法令の解釈に誤りがある。民訴法23条1項5号の「事件」の解釈に誤りがある。
例えば、Aという会社の法務部長を弁護士として十年務めてきました、そういう人が弁護士任官で裁判官になりましたと。たまたま訴訟が起こったら、そのAという会社が被告なり原告なりですという裁判をこの裁判官にされたら、やはり反対側当事者としては、それは立場が変わったんだから、
第一この事件そのものにはかかわっていないんだからいいじゃないですかと言われたって、それは違うんじゃないという話になりませんか。(甲5号証2頁)
そのとおりである。「当事者の代理人又は補佐人であるとき、又はあったとき」が満たされるだけで除斥理由として十分である。
2. 憲法76条3項違反である。判事の独立違反である。
自己の自由意志によらず、最高裁事務局の命により、訟務検事として派遣されることを2度も繰り返しており、今後もいつでも訟務検事として派遣される可能性のある人物は裁判官としての独立を侵されている。少なくとも、行政機関を当事者とする事件の裁判長となることはふさわしくないことは明らかである。
3. 憲法32条、市民的政治的権理国際規約第14条違反である。独立公平な裁判所における公正迅速な裁判請求権の侵害である。信義則違反である。民法1条、民訴法2条違反である。
訟務検事経験者でない裁判官が多数存在するにも関わらず、あえて訟務検事兼裁判官を行政事件の裁判長とすることは、国民に対する信義則違反である。国民の除斥請求権が無条件に認められるべきである。普通の国民であれば訟務検事が裁判長となることを望むものはいない。
4. 憲法31条違反である。適正手続保障義務違反である。良心ある裁判所は、行政機関を勝たせるために訟務検事を裁判官として送り込むようなことはできない。
5. 民法90条、公序良俗違反である。公平な裁判所としての客観的な公正らしさを保つことは民主主義法治国家の公序良俗である。訟務検事兼裁判官を行政事件の裁判長として担当させることは公序良俗違反である。
以上
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抗 告 理 由 補 充 書 二
頭書事件について、抗告理由を補充する。
抗告理由の補充
1.
憲法76条3項、22条違反である。
内藤裕之判事の経歴を見れば、3年毎に転地を繰り返しており、自己の自由意志による転任ではないことが明らかである。大阪地裁、宮崎地裁、広島訟務検事、東京地裁、裁判所職員研修所教官、東京訟務検事、大阪地裁、宮崎地裁と、法務省の職員、あるいは軍人のように、上司の異動命令に忠実に従っている。行政公務員のようである。裁判所、法務省が一体となって人事異動を行っている。
判事、訟務検事、判事、研修所教官、訟務検事、判事と転職を繰り返している。判事の身分が上位命令により犯されている。職業選択の自由の侵害である。憲法22条違反である。
個人の自由な意志による転職、転所と言えるためには、移転先の職席が一般公募されていたこと、及び、本人が自ら応募したこと、複数の応募者の中から公正に選抜されたこと、という条件が満たされなければならないが、そのような公募が実施された事実はない。上意下達命令によるものである。特定の一人に対してのみ、特定の職席に転職する機会を与えることは、判事の独立を犯すものである。
特定の一人に対してのみ優遇し、あるいは劣遇し、特定の職席に転職転地することを要求することは、優劣の評価をする者に対する従属を強いることとなり、判事の独立を犯すものである。
独立侵犯である。裁判所法第48条違反である。
裁判所法第48条(身分の保障) 裁判官は、公の弾劾又は国民の審査に関する法律による場合及び別に法律で定めるところにより心身の故障のために職務を執ることができないと裁判された場合を除いては、その意思に反して、免官、転官、転所、職務の停止又は報酬の減額をされることはない。
憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」という規定に反して、独立が侵されている。
あたかも判事に基本的人権はないかのようである。
憲法22条居住・移転の自由が侵されている。移転の自由は移転しない自由を含み、居住の自由は自己の望む地で居住を維持継続する自由を含むものである。
判事自身に独立した自由な人間としての基本的自由、憲法上の基本的人権が保障されていないのであれば、国民の自由を守ることはできない。自由のない者には、自由の尊さがわからない。自由を知らない者には、他人の自由の侵害を慮ることができない。
自分自身の基本的人権を防御できないということは、国民としての自由権理保持義務違反、判事の憲法擁護義務、憲法12条、99条違反である。「裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
2. 憲法99条違反である。判事の憲法擁護義務違反である。
内藤裕之判事は、自分の基本的人権を防御できていない。3年毎の転任により、居住・移転の自由を侵されている。九州、四国、近畿、関東、九州と無造作に飛ばされている。
自主的な転勤でないことは明らかである。自分の基本的人権を尊重できていないということは、憲法を尊重擁護できていないということである。自分の基本的人権を守れない者には他人の自由、国民の基本的人権を守ることはできない。(甲6)
3. 憲法12条違反である。判事の、国民としての基本的人権の保持義務違反である。判事は判事である前に、国民である。反復的な強制移住、強制免職、強制転職に素直に応じるような国民は憲法12条、99条違反であり、判事に任ぜられる者としてふさわしくない。
憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
4. 内藤裕之判事に以上のような、強制移住、強制免職、強制転職を命じ、それに応じることを認めることも、憲法76条3項、22条、99条、12条、裁判所法第48条違反である。
欧米民主主義国では、裁判官の独立を犯す、同様の人事制度はないことを見ても、日本の人事制度が異常であることは明らかである。
国民の公正な裁判を受ける権理を奪うものである。憲法32条、市民的政治的権理国際規約第14条違反である。
5. 以上のとおり、憲法の規定に反して、公正な裁判が妨げられており、除斥理由及び忌避理由となる。
「絶望の裁判所」 瀬木 比呂志著 より抜粋 (甲6)
日本のキャリアシステムの非民主性
日本のキャリアシステムは、本当に問題が大きい。
一言でいえば、非人間的なシステムである。
その構成員には、本当の意味での基本的人権がない。集会結社の自由や表現の自由はもちろん、学問の自由にも、思想、および良心の自由にも、大きな制約が伴う。日本国憲法第一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される」とあるが、裁判官は、一握りのトップを除いては、個人としてほとんど全く尊重されていない。
虚心にその実態を見据えれば、人間というよりも、むしろ制度の奴隷、精神的収容所の囚人に近く、抑圧も非常に大きい。
第3章でも述べたことであるが、その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして、人々の権利や自由を守ることができようか?みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?
相撲の番付表にも似た微細な格付けのあるヒエラルキー的官僚システムは、戦前のような半全体主義体制下の裁判所であればともかく、本来、民主制下の裁判所にふさわしいものでは全くない。(204p)
日本国憲法第76条に輝かしい言葉で記されているとおり、本来、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、との憲法及び法律にのみ拘束される」ことが必要である。しかし、日本の裁判官の実態は、「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される」ことになっており、憲法の先の条文は、完全に愚弄され、踏みにじられている。
「櫨」の中の裁判官たち日精神的「収容所群島」の囚人たち、という私の比轍の意味が、おわかりいただけたであろうか?あなたが裁判所の門をくぐるとき、あなたを裁く裁判官は、実は、そのような人々なのである。(114p)
そ日本型キャリアシステムは、キャリアシステム全体の中でみても、その階層性、閉鎖性、中央集権性において際立ったものであり、構成員に織烈な出世競争を行わせ、飴と鞭を使い分けてコントロールすることによって、裁判官たちから、その独立性を事実上ほぼ完全に近いといってもよいほどに奪い、制度に屈従する精神的奴隷と化しているのである。(96p)
日本弁護士連合会の意見書 抜粋
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai48/pdfs/48bessi2_4.pdf
(ウ) 諸外国の状況
法曹一元制度をとる英米では、同一審級の裁判所裁判官の報酬は原則同一となっている。他の裁判所へ応募して採用されれば、その報酬に変わるだけである。キャリア制度をとるドイツでも、一般裁判官には年齢による昇給があるだけで、大きな区別は所長や副所長などのポストと連動する。そして、それらのポストは応募制になっている。フランスにおいても、同一の等級(grade)及び群(group)の内部においては勤続年数に応じて自動的に昇給することになっている。このように、法曹一元制度をとる英米のみならず、キャリア制度をとる独仏においても、裁判官の報酬は裁量によって操作される余地のないものになっている。ノルウェーにおいても、「裁判官の間の俸給格差が英米以上に僅少なことが、ここでの特徴である」(下村幸雄「法曹一元制について」法社会学 44 号(1992)所収)とのことである。
(ウ) 諸外国の状況
諸外国でも、事実上、転所が強制されることは裁判官の独立性を危うくするものと考えられている。裁判官の転所しない自由が強固に保障されている。キャリア制度をとるドイツやフランスでも、異動は本人の応募により他所やポストを希望するときのみに行われるとされている。応募制であれば、本人の自主的意思が尊重され、裁判官の独立を害するおそれはない。日本でも応募制にすべきである。
(イ) 現状の問題点
法律上、裁判官は、その意思に反して転所させられることはない(裁判所法第 48条)。しかし、現実には、この条文によって転任を拒否することはほとんどない。裁判官は、ほぼ 3年に 1度の頻度で全国を異動している。希望の多い東京や大阪などの大規模庁に入るときには、一定の経験年数までは「何年後に、最高裁判所の指定する庁に異動する」との一筆を裁判官から出させていることを、最高裁判所も平成 12 年 7月 31 日付書面で認めている。転任の内示に際し、家族の事情からやむなく転所の自由を主張したらところ、「転任の自由を主張した裁判官は一人もいない。どうしても主張するならば、後任も決まっているから官舎を開けてほしい、事務分配もしない」と言われたという例(大塚喜一「刑事弁護士としての私」『日本の刑事裁判』(現代人文社、1998)198頁)まである。裁判官全体が当然のように異動する。裁判官は、毎年、「裁判官第2カード」を提出して転任についての意見を聞かれる。この状況下では、自分だけが1か所または近隣の通勤可能な範囲の裁判所に居続けることは極めて困難である。しかも、これらの転任は最高裁判所裁判官会議が開かれる前に、事務総局や高等裁判所によって作られた原案を内示して承諾を得る形で行われている(平成 12 年 7 月 31 日付および同年 10月 30 日付「司法制度改革審議会からの質問に対する回答」)。かくして転所拒否の自由は形骸化されている。10 年後にどこにいるかを自ら決められない生活―その不安定さは、“身分保障”が名ばかりのものになっていることを示している。裁判官の目が、市民や地域にではなく、裁判所内の処遇に向きがちになる原因になっている。もとより裁判の利用者にとってもこれは好ましくない事態である。担当裁判官が原則 3 年ごとに異動し、かつ同じ庁内でも部が玉突き式に変わる結果、事件途中での裁判官交替が多くなり、訴訟遅延の原因の一つとされている。それが直接主義に反するのはいうまでもない。
イ 補職・配置の改革―公募制・応募制への転換―
(ア)応募制の採用
裁判官の人事評価を人事の具体的場面で使用する場合に、重要な問題となるのは、裁判官の補職・配置である。これについては、応募制を採用するべきである。
応募制とは、補職・配置先の職務、地域を予め明示した上で希望者を募集し、募集に応じた者の中から「裁判官推薦委員会」が適任者を選び、最高裁判所に推薦する補職・配置制度である。
応募制を採用する意義は、以下のとおりである。
第1に、それは裁判官の自律性を高める機能を有する。
応募制では、裁判官は応募しない限り元の場所にとどまることになる。これは異動を望まない者がその場にとどまることができるという意味で、後述のように、裁判官の独立を実質的に保障するが、他方、異動を望む裁判官は、そのために自ら能動的に行動する必要がある。異動を望む裁判官は、他の候補者と透明で公正な競争をした上で所期の異動を求めていくことになる。裁判官は、自らの資質・能力を最も生かす補職・配置先は何かを考え、裁判官としてのあり方にかかわる自己点検を行うことになる。異動に関し、裁判官に自律した能動的発想が求められることになる。
このような精神活動の能動性は、裁判官が真に独立して積極的にその職務を行うための基盤となるものである。
第2に、それは裁判所にとって補職・配置理念の転換となる。
これまでの補職・配置は、最高裁判所事務総局人事局に集約された情報に基づいて決定されており、いわば裁判所内部の上下の関係であった。応募制の理念は、いわば広く人材を求めて、裁判所を、開かれた活力あるものにしようというものである。応募者は、果たして自己の執務する場として魅力的なものであるかどうか、という観点から裁判所を見ることになる。裁判所は、そのような視線にさらされることにより、自らをより魅力的なものに変革する必要に迫られることになる。
第3に、それは裁判官の独立性を実質的に保障するものである。
応募制では新たな補職・配置を定める場合に、それを希望する者(応募者)だけがその対象となるという意味で、意に反する異動を排し、補職・配置を介しての人事権者の恣意的な管理を排する。補職・配置の手続の主導権が、司法行政担当部署から個々の裁判官らに移る。
応募制をとりながら、選考過程が少数の人による不透明・恣意的な決定によるのでは、裁判官の独立性は実質的には保障されない。ここにいう応募制の下では、市民も参加した下級裁判所裁判官選考委員会が客観的な基準と応募者に関する豊富な資料に基づき実質的な選考を行って補職・配置先を決めることになる。応募制とこのような選考手続が相まって、裁判官の独立が実質的に保障される。
第4に、それは適任者を得ることにつながる。
応募制によって意欲のある者が応募する。それら応募者の透明・公正な競争を通じて、その地位に最も相応しい裁判官が選考されることとなる。
第5に、それは地方分権に資するものである。
任地等を明示した応募制をとることで、当該地域で裁判官として働きたいとの意欲をもった者が着任することになる。
また、当該地域ブロックの下級裁判所裁判官推薦委員会が地域の実情に合った裁判官を選任することにより、地域に根ざした裁判官を得ることができる。
以上
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