2014年5月6日火曜日

法創造力のある裁判事を

われわれの裁判提起はその判決によって法創造を求めるものばかりです。
法創造的裁判をしましょう。

延岡市大貫町のKDDI電磁波裁判

も法創造のための裁判でしたが、腰抜けヒラメ裁判官には無理でした。
法創造のチャンスを、チャンスと捉えず、忌まわしき事態と捉え、無に帰する。
裁判官の使命を果たさない。
権威に対するヒラメです。


及び腰と追随の民事裁判 ------------「絶望の裁判所」瀬木比呂志著 129p
たとえば名誉やプライバシーと表現の自由が衝突する訴訟のように、あるいは労働訴訟のように、広い意味での「価値」に関わる事案、行政訴訟や国家賠償請求訴訟を始めとする権力のチェックに関わる事案、大企業に対する消費者の請求や医療過誤損害賠償請求等の、当事者双方の有する力や情報に大きな差のある事案、原告によって新たな法的判断が強く求められている事案等について裁判官がどこまで積極性を発揮すべきかは、人によって考え方の分かれる問題である。いずれの側にもそれなりの言い分や正当性があることが多いからだ。

欧米(アメリカは判例法国といわれるが、実際には制定法も非常に多い)では、法規の解釈の幅には限界がある反面、それを超えた部分については例えば、条理や、慣習法を根拠とした積極的な判断が下されることが多い。
異なる価値が鋭く対立する前記のようなタイプの訴訟においては、裁判官のそうしたクリエイティヴな法創造機能が期待されているのである。
それでは、日本の民事裁判の現状はどうだろうか?
私は、三三年間の裁判官生活における見聞からして、たとえばアメリカの裁判官、ことに連邦裁判所の裁判官に比べると、日本の裁判官が、先のような点に関し、概して、及び腰、おっかなびっくりであり、難しい判断を避けようとする、あるいは単に先例に追随しようとする傾向が強いことは否定できないと思う。もちろん、あくまで一般的な傾向ということであるが。
そうしたことは、判例となって法律誌に掲載される一握りの判決をみていただけではあまりよくわからないかもしれない。しかし、日本の裁判官は、その日常的な事件処理において、新たな法理を立てたりその具体的なメルクマールを示したりする判決をあまり書きたがらないし、第1章で触れた仮の地位を定める仮処分命令手続における決定(差止めや法律上の地位の確認が典型的)についても果敢な判断をためらう傾向が非常に強いことは、私の経験からして間違いがないと考える。もちろん、私は、何でも差止めを行う裁判官がよいなどというつもりはない。差止めが適切であり正当なときにはそれをためらわないことが必要だといっているだけである。
法解釈から法創造への移行は実際には虹の色の移り変わりと同様に微妙であって明確に線が引けるようなものではない。その時々に直面する事案、問題点について、裁判官は、当たり前の解釈からかなりの程度に思い切った法創造にまで至る広い領域の中に適切なポイントを選択すべく、自覚的で内省的な決断を行わなければならない。
しかし、微妙な価値判断に関わる困難な法律問題、ことに社会の現状に異議を唱える方向のそれに直面したときに、以上のような態度でそれに臨む裁判官は、日本には多くない。大多数の裁判官は、ただ先例に追随する、棄却、却下の方向を取る、判決を書かなくてもよい和解という手段に頼ろうとするなどの道を選ぶ。
また、日本の裁判官の判決は、長くて細かいがわかりにくく、しかも、肝心の重要な争点に関する記述がおざなりであったり、形式論理で木で鼻をくくったように処理されていたりすることが多い。認定事実と法理の結び付きがあいまいで、判断のメルクマールが明らかでないことも多い。要するに、のっぺりした官僚の作文という傾向が強い。これは、法学教育のあり方にも問題があるのだが、根本的には、裁判官に真撃に事案にコミットしょうという心構えが乏しく、また、当事者のためにではなく、上級審にみせるために、あるいは、自己満足のために判決を書いているという側面が大きいことによる。

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