2014年4月27日日曜日

キャリアシステムの非民主性、非人間性

これは公募制人事でない全ての公務員に言えることです。

1年前に指摘していることです。

「キャリアシステム」というより、奴隷化人事システムです。

-------- 「絶望の裁判所」 瀬木 比呂志著 より
日本のキャリアシステムは、本当に問題が大きい。
一言でいえば、非人間的なシステムである。
その構成員には、本当の意味での基本的人権がない。集会結社の自由や表現の自由はもちろん、学問の自由にも、思想、および良心の自由にも、大きな制約が伴う。日本国憲法第一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される」とあるが、裁判官は、一握りのトップを除いては、個人としてほとんど全く尊重されていない。
虚心にその実態を見据えれば、人間というよりも、むしろ制度の奴隷、精神的収容所の囚人に近く、抑圧も非常に大きい。
第3章でも述べたことであるが、その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして、人々の権利や自由を守ることができようか?みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?
相撲の番付表にも似た微細な格付けのあるヒエラルキー的官僚システムは、戦前のような半全体主義体制下の裁判所であればともかく、本来、民主制下の裁判所にふさわしいものでは全くない。

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日本国憲法第76条に輝かしい言葉で記されているとおり、本来、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、との憲法及び法律にのみ拘束される」ととが必要である。しかし、日本の裁判官の実態は、「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぽら組織の掟とガイドラインによって拘束される」ことになっており、憲法の先の条文は、完全に愚弄され、踏みにじられている。
「櫨」の中の裁判官たち日=精神的「収容所群島」の囚人たち、という私の比喩の意味が、おわかりいただけたであろうか?あなたが裁判所の門をくぐるとき、あなたを裁く裁判官は、実は、そのような人々なのである。

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日本型キャリアシステムは、キャリアシステム全体の中でみても、その階層性、閉鎖性、中央集権性において際立ったものであり、構成員に織烈な出世競争を行わせ、飴と鞭を使い分けてコントロールすることによって、裁判官たちから、その独立性を事実上ほぼ完全に近いといってもよいほどに奪い、制度に屈従する精神的奴隷と化しているのである。

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http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai48/pdfs/48bessi2_4.pdf
(ウ) 諸外国の状況
法曹一元制度をとる英米では、同一審級の裁判所裁判官の報酬は原則同一となっている。他の裁判所へ応募して採用されれば、その報酬に変わるだけである。キャリア制度をとるドイツでも、一般裁判官には年齢による昇給があるだけで、大きな区別は所長や副所長などのポストと連動する。そして、それらのポストは応募制になっている。フランスにおいても、同一の等級(grade)及び群(groupe)の内部においては勤続年数に応じて自動的に昇給することになっている。このように、法曹一元制度をとる英米のみならず、キャリア制度をとる独仏においても、裁判官の報酬は裁量によって操作される余地のないものになっている。ノルウェーにおいても、「裁判官の間の俸給格差が英米以上に僅少なことが、ここでの特徴である」(下村幸雄「法曹一元制について」法社会学 44 号(1992)所収)とのことである。

(ウ) 諸外国の状況
諸外国でも、事実上、転所が強制されることは裁判官の独立性を危うくするものと考えられている。裁判官の転所しない自由が強固に保障されている。キャリア制度をとるドイツやフランスでも、異動は本人の応募により他所やポストを希望するときのみに行われるとされている。応募制であれば、本人の自主的意思が尊重され、裁判官の独立を害するおそれはない。日本でも応募制にすべきである。-

(イ) 現状の問題点
法律上、裁判官は、その意思に反して転所させられることはない(裁判所法第 48条)。しかし、現実には、この条文によって転任を拒否することはほとんどない。裁判官は、ほぼ 3年に 1度の頻度で全国を異動している。希望の多い東京や大阪などの大規模庁に入るときには、一定の経験年数までは「何年後に、最高裁判所の指定する庁に異動する」との一筆を裁判官から出させていることを、最高裁判所も平成 12 年 7月 31 日付書面で認めている。転任の内示に際し、家族の事情からやむなく転所の自由を主張したらところ、「転任の自由を主張した裁判官は一人もいない。どうしても主張するならば、後任も決まっているから官舎を開けてほしい、事務分配もしない」と言われたという例(大塚喜一「刑事弁護士としての私」『日本の刑事裁判』(現代人文社、1998)198頁)まである。裁判官全体が当然のように異動する。裁判官は、毎年、「裁判官第 2 カード」を提出して転任についての意見を聞かれる。この状況下では、自分だけが 1 か所または近隣の通勤可能な範囲の裁判所に居続けることは極めて困難である。しかも、これらの転任は最高裁判所裁判官会議が開かれる前に、事務総局や高等裁判所によって作られた原案を内示して承諾を得る形で行われている(平成 12 年 7 月 31 日付および同年 10月 30 日付「司法制度改革審議会からの質問に対する回答」)。かくして転所拒否の自由は形骸化されている。10 年後にどこにいるかを自ら決められない生活―その不安定さは、“身分保障”が名ばかりのものになっていることを示している。裁判官の目が、市民や地域にではなく、裁判所内の処遇に向きがちになる原因になっている。もとより裁判の利用者にとってもこれは好ましくない事態である。担当裁判官が原則 3 年ごとに異動し、かつ同じ庁内でも部が玉突き式に変わる結果、事件途中での裁判官交替が多くなり、訴訟遅延の原因の一つとされている。それが直接主義に反するのはいうまでもない。

2 補職・配置の改革―公募制・応募制への転換―
 (1) 応募制の採用  裁判官の人事評価を人事の具体的場面で使用する場合に、重要な問題となるのは、裁判官の補職・配置である。これについては、応募制を採用するべきである。
 応募制とは、補職・配置先の職務、地域を予め明示した上で希望者を募集し、募集に応じた者の中から「裁判官推薦委員会」が適任者を選び、最高裁判所に推薦する補職・配置制度である。
 応募制を採用する意義は、以下のとおりである。
 第1に、それは裁判官の自律性を高める機能を有する。
応募制では、裁判官は応募しない限り元の場所にとどまることになる。これは異動を望まない者がその場にとどまることができるという意味で、後述のように、裁判官の独立を実質的に保障するが、他方、異動を望む裁判官は、そのために自ら能動的に行動する必要がある。異動を望む裁判官は、他の候補者と透明で公正な競争をした上で所期の異動を求めていくことになる。裁判官は、自らの資質・能力を最も生かす補職・配置先は何かを考え、裁判官としてのあり方にかかわる自己点検を行うことになる。異動に関し、裁判官に自律した能動的発想が求められることになる。
このような精神活動の能動性は、裁判官が真に独立して積極的にその職務を行うための基盤となるものである。
第2に、それは裁判所にとって補職・配置理念の転換となる。
これまでの補職・配置は、最高裁判所事務総局人事局に集約された情報に基づいて決定されており、いわば裁判所内部の上下の関係であった。応募制の理念は、い わば広く人材を求めて、裁判所を、開かれた活力あるものにしようというものである。応募者は、果たして自己の執務する場として魅力的なものであるかどうか、という観点から裁判所を見ることになる。裁判所は、そのような視線にさらされることにより、自らをより魅力的なものに変革する必要に迫られることになる。
第3に、それは裁判官の独立性を実質的に保障するものである。
応募制では新たな補職・配置を定める場合に、それを希望する者(応募者)だけがその対象となるという意味で、意に反する異動を排し、補職・配置を介しての人事権者の恣意的な管理を排する。補職・配置の手続の主導権が、司法行政担当部署から個々の裁判官らに移る。
応募制をとりながら、選考過程が少数の人による不透明・恣意的な決定によるのでは、裁判官の独立性は実質的には保障されない。ここにいう応募制の下では、市民も参加した下級裁判所裁判官選考委員会が客観的な基準と応募者に関する豊富な資料に基づき実質的な選考を行って補職・配置先を決めることになる。応募制とこのような選考手続が相まって、裁判官の独立が実質的に保障される。
第4に、それは適任者を得ることにつながる。
応募制によって意欲のある者が応募する。それら応募者の透明・公正な競争を通じて、その地位に最も相応しい裁判官が選考されることとなる。
第5に、それは地方分権に資するものである。
任地等を明示した応募制をとることで、当該地域で裁判官として働きたいとの意欲をもった者が着任することになる。
また、当該地域ブロックの下級裁判所裁判官推薦委員会が地域の実情に合った裁判官を選任することにより、地域に根ざした裁判官を得ることができる。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2002_35.pdf

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