イェーリングの「権理のための闘争」 の講演翻訳版
の内容は岩波文庫の書籍版と内容が異なるようです。
速記録の逐語訳と、加筆修正版の違いです。
このような記述がどこにあるかと探してみたらどこにもありませんでした。文庫版のみです。
「私人が何らかの事情によって――たとえば自分が権利を持つことを知らずに、または安逸と臆病から――いつまでも全く権利主張をしないでいるならば、法規は実際に萎え衰えてしまう。(中略)恣意と無法が厚顔無恥に頭をもたげるのは、いつも、法律を防衛すべき任務を負う者が自分の義務を果たしていないことの確かなしるしである。そして、私法においては誰もが、それぞれの立場において法律を防衛し、自分の持ち場で法律の番人・執行者としての役割を果たすべき任務を負わされているのだ。」
Ihering, Der Kampf um das Recht ドイツ語
---- 講演口語版から
「私の講演のエッセンスは次のように一言うことができます。すなわち、侵害された権理を放棄することは臆病な行為であリ、その行為は人を不名誉に導き、公共体にとても大きな損害を及ぼすこと、つまり、権理のための闘争は倫理的自己保存の行為であり、自分自身および共同体に対する義務である、ということです。
「政治教育にとって、私生活において権理感覚を養成することは最重要の課題です。といいますのは、最終的にはそこから、後に国家の運命を決するような道徳の力全体が生れてくるからです。
「国家は、個人のこの感覚を、すなわち力強い権理感覚をあの千この手で育てるという切迫した義務を負っていることです。法が安定しているのかどうか、法が実現されているのかどうか、そうしたことはとどのつまりこの点に依拠しています。
「したがって、権理が侵害された場合に人がどう反応するかは、一つには攻撃の種類によって決まります。それから、この二つ日に挙げた観点によって、つまり、財産と人との距離感の違いによって決まります。
これまで述べてきたことから次のことが一刀えます。つまり、人が物のために戦わなければならないこの闘争は、その人自身にとっての倫理的満足感の問題であるばかりでなく、その闘争は公共体にとってもきわめて重要なものでもあるということです。人間にとって、それは道徳的自己保存の問題であります。人が尊敬を受けるのは、その人がそのようないきり立つ状況において臆病風にも負けなかったという証明書を発行できることによってです。この闘争が公共体に対してとのような価値をもっているのか、そのことについて、私はすでに詳しく述べておきました。そこからは次のことが明らかになります。つまり、凶家は、個人のこの感覚を、すなわち力強い権理感覚をあの手この手で育てるという切迫した義務を負っていることです。法が安定しているのかどうか、法が実現されているのかどうか、そうしたことはとどのつまりこの点に依拠しています。
「自分の権理を求めるこの要求は何に起因しているのでしょうか?これは権理と人格との関連性という問題につながります。私見によれば、権理は人格それ自身の一部であり、権理は人格から生れてきたものなのです。権理は私の労働であり、そして労働もまたそのような姿を見せるよ、つに、この物の中には私自身の一部分があるのです。それは私の諸権理が形成する円環の一部です。権理はいわば私の拡大された力、私の拡大された人格であり、私自身が権理そのものなのです。よろしいでしょうか。私の諸権理が形成している円環の一つが一撃されるならば、その中心器官、つまり人格白身はその打撃を感じ、ここに権理の病理学上のモメントが発生します。すなわち、権理が侵害される、そうすればこの状態によってはじめて権理の真の本質とは何かということが完壁に洞察されるようになるのです。医者にとって、まさにある器官の病理学上の疾患があってはじめてその器官の真の意義について明らかになるように、皆さん、私たち法律家にとっても、権理の侵害が権理の真の生活および権理と人格との真の関連がどういうものなのか、その姿を見せてくれるのです。それゆえこの権理それ自体が侵害されるやいなや、その打撃は人格に伝わり、人格はそれに反応します。これは権理の侮辱であり、人格が挑戦を受けているのです。
「それに対して、別の観点が立てられます。私生活においては道徳の力が育成されなければなりません。というのは、法感覚はより高次の領域で、つまり国家の正当防衛に十分に役立っためには、その学校を建てそこを卒業しなければならないからです。まさに私法という低次の領域において正当な闘争を戦う勇問気をもたないような国民は、国家が、つまり国家の権力が問題になっている場合でも、戦う勇気をもつことはないでしょう。政治教育にとって、私生活において権理感覚を養成することは最重要の課題です。といいますのは、最終的にはそこから、後に国家の運命を決するような道徳の力全体が生れてくるからです。
「私の目には特徴的な後期ローマ法の現象が一般的に現われてきます。それは債務者に共感を覚えていること、債権者の権理は多くのケースで放棄されているのが見られることです。それは堕落した時代の徴表です。つまり、立法者が誤った妄相心から、債権者の権理、確固たる当然の権理を犠牲にし、債務者に情をかけるならば、それは堕落の徴です。
「私の公平な権理感覚が憤りを覚えるのは、すべての損害賠償訴訟がいかにして債権者の当然の権理を奪うことを狙っているのかに思いをめぐらすときです。損害を受けた人に災いあれ〔現代の制度はそうなっています〕。 被害者は訴訟を起こそうが起こすまいが、つねに損をします。
------------ 文庫版から
「自己の権理が蹂躙されるならば、その権理の目的物が侵されるだけではなく己の人格まで脅かされるのである。権理のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。」
世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きした力なのである。
長い年月の間には、無数の個人やあらゆる身分の利益が既存の法と固く結びつくものであって、これらの利益を著しく侵すことなしに既存の法を廃止することは不可能である。
そのような試みはすべて、脅威に曝された諸利益の自然な自己保存本能によるはげしい抵抗を誘発し、闘争を不可避ならしめる。他のすべての闘争におけると同様にこの闘争においても、物を言うのは理窟ではなく対立する両勢力の力関係であり、あたかも力の合成の場合のように、最初の方向ではなく平行四辺形の対角線の方向にカが走ることも稀ではない。
肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。
きわめて逆説的に聞こえるかもしれないが、権利=法とは理想主義である。それは空想の理想主義ではなく、品格の理想主義である。つまり、自分を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である。
恣意・無法という九首の蛇が頭をもたげたときは、誰もがそれを踏み砕く使命と義務を有する。権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。
国家が国民の権利感覚を十分に発達させ、それによって国家自身の力をも完全に発展させるためには、次の道をとるしかない。すなわち、私法ばかりでなく警察・行政・租税立法を含めた法の全分野で実体法を確実・明確・確定的なものとし、健全な権利感覚に反するすべての法規を除去するとともに、裁判所の独立を保障し、訴訟制度をできるかぎり完全に整えることである。
私が訴訟を億劫がるだろう、不精で怠惰で優柔不断な態度を取るだろうという思惑で私の正当な権利を奪おうとする債務者に対しては、どんなに高くつくとしても私の権利を追求すべきであり、追求しなければならない。それをしなければ、私はその権利を失うばかりでなく、およそ権利一般を放棄することになってしまう。
権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言えるとすれば、権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らなければならぬ。
権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対応しなければならないかぎり―世界が亡びるまでにその必要はなくならないのだが―権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
諸国民が何の苦労もなしに法を手に入れたわけではなく、法を求めて苦心し、争い、戦い、血を流さなければならなかったからこそ、それぞれの国民とその法との間に、生命の危険を伴う出産によって母と子の間に生ずるのと同様の固い絆が生まれるのではないか?何の苦労もなしに手に入った法などというものは、コウノトリが持ってきた赤ん坊のようなものだ。コウノトリが持ってきたものは、いつ狐や鷲が取っていってしまうか知れない。それに対して、赤子を生んだ母親はこれを奪うことを許さない。同様に、血を流すほどの労苦によって法と制度をかち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。
「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。」
「人びとは、肉体的生存の条件としての腎臓や肺や肝臓について何も知ってはいない。それでも、肺のチクチクした痛み、腎臓や肝臓の疼痛は誰でも感じ取るのであり、これを警告として受け止める。」
「肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。」
「千人もの兵士が戦わなければならないところでは、一人が脱落しても気づかれないかもしれない。しかし、千人のうち百人が戦線を離脱すれば、忠実に部署を守り続ける者の状況はどんどん悪化してゆき、自分たちだけで全戦線を持ち堪えねばならないことになる。」
「勇気をもって自分の権利を守ろうとしたことのない者が、国民全体のためなら喜んで自分の生命・財産を投げ出したいなどと思うものだろうか?」
「外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護育成すべき宝はない。」
-------
Ⅰ国民はすべての市民の総和にほかならない
各個人が感じ、考え、行為する通りに国民も感じ、考え、行為する
【私権】に関する市民の権利感覚が、鈍感・臆病・無気力であり、不公正な法律や劣悪な制度に遮られて個人が自分の力を自由に力強く発揮する場がなく、支持と助力を期待してしかるべき場合に迫害が行われ、その結果、不法・無法は耐え忍ぶもの、どうにもならないものだ、という風土が慣れっこになったとするならば、そんなに卑屈な、いじけた、無気力な権利感覚が個人市民=全国民を覆い尽くす。
このような国民が政治的自由の圧殺、憲法の違反ないし破棄、外敵の侵攻によって、全国民の権利が侵害された場合、突如として敏感になり、精力的な行動に転ずるなどとは誰も信じない。勇気をもって自分の権利を守ろうとしたことのない市民が国民全体のためなら喜んで自分の生命・財産を投げ出したいなどと思うものだろうか?
自己の名誉と人格がこうむった理念的損害を意に介さず、不精または臆病のために正当な権利を放棄する者、権利の問題をもっぱら物質的利益の尺度で考える者が、国民全体の権利と名誉にかかわる場合には別の尺度を用い、別の感じ方をするなどと期待することはできない。
未だかって示されたことのない理想主義的な心的態度は、どこからも突然出てくることはない。そんなことはありえない。
憲法上の市民の権利と国際法上の国民の権利は、その権利のための闘争の戦士は、私法上の権利のための闘争の戦士以外の者ではありえない
不法が権利を駆逐した場合、告発されるべきは不法ではなくて、これを許した権利のほうである。『不法をなすなかれ』、および『不法に屈するなかれ』という二つの命題について、社会生活にとってのそれぞれの実務的意義を評価しなければならないとしたら、私は、第一番に挙げられるのは不法に屈するなかれの方であり、不法をなすなかれの方は二番目だ、と言うであろう」
「権利感覚の本質は行為に存するのだから、行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう」。
---
ー私の理論によって批判されるのは、臆病や無精や怠惰によって漫然と不法を
甘受する態度だけである(P15)。
ー他人が出した積極的指示を間違いだとして拒否するだけでは不十分であって、
これに代えて別の積極的指示を与えることが必要なのである(P16)。
ー権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である(P29)。
ー制度を支えるのは歴史の慣性といったものではなく、それぞれに現状を守ろうとする
諸利益が示す抵抗力なのである(P36)。
ー法の理念は永遠の生成に存し、生成したものは新たに生成に席を譲らなければならない(P37)。
ーある国民がみずからの法に注ぎ、みずからの法を貫くための支えとする愛情の力は、
その法を得る為に費やされた努力と苦労の大きさに比例する(P42)。
ー隣国によって一平方マイルの領土を奪われながら膺懲の挙に出ない国は、その他の領土も
奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやまてしまう
であろう(P47)。
ー権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄することは倫理的自殺である(P50)。
ー自己の人格を害するしかたで権利を無視されたものはあらゆる手段で戦うのが、あらゆる者の自分自身に対する義務なのである(P52)。
ー権利のための闘争は個人の課題であるこにとどまらず、発達せる国家においては大幅に国家権力の課題となっているからである(P69)。
ー物と私とを結びつけたのは偶然ではなく、私の意思なのであり、しかもこの意思は、まず持って費やされた私自身ないし他人の労働によって生まれたのである。
私がその物において所有し主張するものは、私自身ないし他人の過去の労働の一部である。
私は、その物をわがものとすることによって、私の人格をこれに刻みつけるのだ。
この物を侵す者は私の人格を侵すことになり、この物に加えられる打撃は物のかたちをとっている私自身に加えられることになる。所有権とは、物の上に拡大された私の人格の外縁にほかならない(P72)。
ー権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自覚することがない。
権利侵略という責め苦にによって問い質されてはじめて、権利感覚の存在と内容が自覚され、真実が顕れるとともに力がしめされるのである(P74)。
ー権利のための闘争は権利者自分自身に対する義務である。。。。。
権利の主張は国家共同体に対する義務である(P79)。
ー実行をともなわない法規範はその名に値せぬ(P80)。
ー不法が権利を駆逐した場合、告発されるべき不法ではなくて、これを許した権利の
ほうである(P84)。
ー攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりでなく、
国家共同体に対する義務である(P85)。
ー憲法上の(国民の)権利と国際法上の(国家の)権利のための闘争の戦士は、
私法上の権利のための闘争の戦士以外の者ではありえないのだ(P105)。
ー権利=法とは理想主義である。それは空想の理想主義ではなく、品格の理想主義である。
つまり、自分を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である。
自分の権利に対して攻撃を加える者が誰であろうと、個人であろうと時刻の政府であろうと外国であろうと、どんな違いがあろうか?攻撃された者が示す抵抗にとって決定的なのは、
加害者が誰であるかではなく、被害者の権利感覚の鋭さ、かれが自己主張するさいの
倫理的な力=士気なのだ(P106)。
ー外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護教育すべき宝はない。国民の権利感覚の涵養を図ることは、国民に対する政治教育最高の、最も重要な課題の一つなのである。国民各個人の健全で力強い権利感覚は、国家にとって、自己の力の最も豊かな源泉であり、対内的・対外的存立の最も確実な保障物である(P108)。
ー歴史はいつでも、大声ではっきりと、こう教えているのだ。国民の力は国民の権利感覚の
力にほかならず、国民の権利感覚の涵養が国家の健康と力の涵養を意味する(P110)。
ー権利の本質は行為に存する(P112)。
ー訴訟に勝つことによって得られるはずの利益は、前者(被害者=原告)にとっては
何の損害も受け得ない状態が回復されるというだけのことだが、後者(加害者=被告)に
とっては相手方の犠牲において儲かる。。。これはまさしく、破廉恥な嘘をつくように
奨励し、裏切り行為に報奨金を出すようなものではなかろうか?
しかし、われわれの現在の法は、まさにこうしたものなのだ(P114)。
---
「イギリス人旅行者は、宿屋の主人から高い代金を吹っ掛けようものならまるでイギリス古来の権利を守るかのように断乎としてこれに立ち向かう。(中略)実はイギリス人が守ろうとしているわずか2グルデンの金には、本当に昔ながらのイギリスが含まれているのである。だからこそ、祖国イギリスでは誰でもかれを理解し、したがって気軽に高い代金を吹っ掛けてやろうなどとは思わない」
---
権利を侵害されるということは、人格や品格を侵害されることと同じことだ。
権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄することは倫理的自殺である。
私の権利が侵害・否認されれば法一般が侵害・否認され、私の権利が防御・主張・回復されれば法一般が防御・主張・回復される。
権利のための闘争は、国家共同体に対する義務でもある。
不法が権利を駆逐した場合、告発されるべきは不法ではなくて、これを許した権利の方である。」
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権利侵害によって自分自身ないし他人がどんなに大きな苦痛を受けるか経験したことのない者は、「ローマ法大全」の全巻を暗記しているとしても権利の何たるかを知っているとは言えない。理解力ではなく感覚だけが、権利の何たるかを知るために役立つのである。したがつて、すべての権利の心理的源泉が一般に権利感覚と呼ばれているのは、もっともである。これに対して、権利意識とか、権利確信とかいう用語は学者が作った抽象的概念であり、 一般国民には知られていない。権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている。理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない。しかし、愛が往々にして自覚されないままであり、それがはっきり意識されるには一瞬をもって足りるのと同様に、権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自党することがない。権利侵害という責苦によって問い質されてはじめて、権利感覚の存在と内容が自覚され、真実が顕れるとともに力が示されるのである。その真実が何であるかは、すでに述べたとおりである(四九―五〇頁)。― 権利は人格のЪ倫理的生存条件であり、権利の主張は人格自身の倫理的自己保存にほかならない。
権利感覚が自己に加えられた侵害行為に対して実際にどれだけ強く反応するかは、権利感覚の健全さの試金石である。権利感覚がこうむる苦痛の程度は、危険に曝されている価値をどれだけ大きいものと考えていたかを、権利感覚自身に教えてくれる。感じている苦痛を危険から身を守れという警告として受けとめず、苦痛を耐え忍びながら立ち上がらずにいるならば、それは権利感覚をもたないということだ。そうした態度も事情によっては宥恕できる場合があるかもしれない。しかし、それが長続きすれば、権利感覚そのものにとってマイナスにならぎるをえない。けだし、権利感覚の本質は行為に存するのだから。行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう。敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じとる能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感覚の存在を示す二つの標識だと思われる。74p
権理のための闘争.pdf | 757K | 平田公夫訳 |
の内容は岩波文庫の書籍版と内容が異なるようです。
速記録の逐語訳と、加筆修正版の違いです。
このような記述がどこにあるかと探してみたらどこにもありませんでした。文庫版のみです。
「私人が何らかの事情によって――たとえば自分が権利を持つことを知らずに、または安逸と臆病から――いつまでも全く権利主張をしないでいるならば、法規は実際に萎え衰えてしまう。(中略)恣意と無法が厚顔無恥に頭をもたげるのは、いつも、法律を防衛すべき任務を負う者が自分の義務を果たしていないことの確かなしるしである。そして、私法においては誰もが、それぞれの立場において法律を防衛し、自分の持ち場で法律の番人・執行者としての役割を果たすべき任務を負わされているのだ。」
Ihering, Der Kampf um das Recht ドイツ語
---- 講演口語版から
「私の講演のエッセンスは次のように一言うことができます。すなわち、侵害された権理を放棄することは臆病な行為であリ、その行為は人を不名誉に導き、公共体にとても大きな損害を及ぼすこと、つまり、権理のための闘争は倫理的自己保存の行為であり、自分自身および共同体に対する義務である、ということです。
「政治教育にとって、私生活において権理感覚を養成することは最重要の課題です。といいますのは、最終的にはそこから、後に国家の運命を決するような道徳の力全体が生れてくるからです。
「国家は、個人のこの感覚を、すなわち力強い権理感覚をあの千この手で育てるという切迫した義務を負っていることです。法が安定しているのかどうか、法が実現されているのかどうか、そうしたことはとどのつまりこの点に依拠しています。
「したがって、権理が侵害された場合に人がどう反応するかは、一つには攻撃の種類によって決まります。それから、この二つ日に挙げた観点によって、つまり、財産と人との距離感の違いによって決まります。
これまで述べてきたことから次のことが一刀えます。つまり、人が物のために戦わなければならないこの闘争は、その人自身にとっての倫理的満足感の問題であるばかりでなく、その闘争は公共体にとってもきわめて重要なものでもあるということです。人間にとって、それは道徳的自己保存の問題であります。人が尊敬を受けるのは、その人がそのようないきり立つ状況において臆病風にも負けなかったという証明書を発行できることによってです。この闘争が公共体に対してとのような価値をもっているのか、そのことについて、私はすでに詳しく述べておきました。そこからは次のことが明らかになります。つまり、凶家は、個人のこの感覚を、すなわち力強い権理感覚をあの手この手で育てるという切迫した義務を負っていることです。法が安定しているのかどうか、法が実現されているのかどうか、そうしたことはとどのつまりこの点に依拠しています。
「自分の権理を求めるこの要求は何に起因しているのでしょうか?これは権理と人格との関連性という問題につながります。私見によれば、権理は人格それ自身の一部であり、権理は人格から生れてきたものなのです。権理は私の労働であり、そして労働もまたそのような姿を見せるよ、つに、この物の中には私自身の一部分があるのです。それは私の諸権理が形成する円環の一部です。権理はいわば私の拡大された力、私の拡大された人格であり、私自身が権理そのものなのです。よろしいでしょうか。私の諸権理が形成している円環の一つが一撃されるならば、その中心器官、つまり人格白身はその打撃を感じ、ここに権理の病理学上のモメントが発生します。すなわち、権理が侵害される、そうすればこの状態によってはじめて権理の真の本質とは何かということが完壁に洞察されるようになるのです。医者にとって、まさにある器官の病理学上の疾患があってはじめてその器官の真の意義について明らかになるように、皆さん、私たち法律家にとっても、権理の侵害が権理の真の生活および権理と人格との真の関連がどういうものなのか、その姿を見せてくれるのです。それゆえこの権理それ自体が侵害されるやいなや、その打撃は人格に伝わり、人格はそれに反応します。これは権理の侮辱であり、人格が挑戦を受けているのです。
「それに対して、別の観点が立てられます。私生活においては道徳の力が育成されなければなりません。というのは、法感覚はより高次の領域で、つまり国家の正当防衛に十分に役立っためには、その学校を建てそこを卒業しなければならないからです。まさに私法という低次の領域において正当な闘争を戦う勇問気をもたないような国民は、国家が、つまり国家の権力が問題になっている場合でも、戦う勇気をもつことはないでしょう。政治教育にとって、私生活において権理感覚を養成することは最重要の課題です。といいますのは、最終的にはそこから、後に国家の運命を決するような道徳の力全体が生れてくるからです。
「私の目には特徴的な後期ローマ法の現象が一般的に現われてきます。それは債務者に共感を覚えていること、債権者の権理は多くのケースで放棄されているのが見られることです。それは堕落した時代の徴表です。つまり、立法者が誤った妄相心から、債権者の権理、確固たる当然の権理を犠牲にし、債務者に情をかけるならば、それは堕落の徴です。
「私の公平な権理感覚が憤りを覚えるのは、すべての損害賠償訴訟がいかにして債権者の当然の権理を奪うことを狙っているのかに思いをめぐらすときです。損害を受けた人に災いあれ〔現代の制度はそうなっています〕。 被害者は訴訟を起こそうが起こすまいが、つねに損をします。
------------ 文庫版から
「自己の権理が蹂躙されるならば、その権理の目的物が侵されるだけではなく己の人格まで脅かされるのである。権理のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。」
世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きした力なのである。
長い年月の間には、無数の個人やあらゆる身分の利益が既存の法と固く結びつくものであって、これらの利益を著しく侵すことなしに既存の法を廃止することは不可能である。
そのような試みはすべて、脅威に曝された諸利益の自然な自己保存本能によるはげしい抵抗を誘発し、闘争を不可避ならしめる。他のすべての闘争におけると同様にこの闘争においても、物を言うのは理窟ではなく対立する両勢力の力関係であり、あたかも力の合成の場合のように、最初の方向ではなく平行四辺形の対角線の方向にカが走ることも稀ではない。
肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。
きわめて逆説的に聞こえるかもしれないが、権利=法とは理想主義である。それは空想の理想主義ではなく、品格の理想主義である。つまり、自分を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である。
恣意・無法という九首の蛇が頭をもたげたときは、誰もがそれを踏み砕く使命と義務を有する。権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。
国家が国民の権利感覚を十分に発達させ、それによって国家自身の力をも完全に発展させるためには、次の道をとるしかない。すなわち、私法ばかりでなく警察・行政・租税立法を含めた法の全分野で実体法を確実・明確・確定的なものとし、健全な権利感覚に反するすべての法規を除去するとともに、裁判所の独立を保障し、訴訟制度をできるかぎり完全に整えることである。
私が訴訟を億劫がるだろう、不精で怠惰で優柔不断な態度を取るだろうという思惑で私の正当な権利を奪おうとする債務者に対しては、どんなに高くつくとしても私の権利を追求すべきであり、追求しなければならない。それをしなければ、私はその権利を失うばかりでなく、およそ権利一般を放棄することになってしまう。
権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言えるとすれば、権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らなければならぬ。
権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対応しなければならないかぎり―世界が亡びるまでにその必要はなくならないのだが―権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
諸国民が何の苦労もなしに法を手に入れたわけではなく、法を求めて苦心し、争い、戦い、血を流さなければならなかったからこそ、それぞれの国民とその法との間に、生命の危険を伴う出産によって母と子の間に生ずるのと同様の固い絆が生まれるのではないか?何の苦労もなしに手に入った法などというものは、コウノトリが持ってきた赤ん坊のようなものだ。コウノトリが持ってきたものは、いつ狐や鷲が取っていってしまうか知れない。それに対して、赤子を生んだ母親はこれを奪うことを許さない。同様に、血を流すほどの労苦によって法と制度をかち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。
「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。」
「人びとは、肉体的生存の条件としての腎臓や肺や肝臓について何も知ってはいない。それでも、肺のチクチクした痛み、腎臓や肝臓の疼痛は誰でも感じ取るのであり、これを警告として受け止める。」
「肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。」
「千人もの兵士が戦わなければならないところでは、一人が脱落しても気づかれないかもしれない。しかし、千人のうち百人が戦線を離脱すれば、忠実に部署を守り続ける者の状況はどんどん悪化してゆき、自分たちだけで全戦線を持ち堪えねばならないことになる。」
「勇気をもって自分の権利を守ろうとしたことのない者が、国民全体のためなら喜んで自分の生命・財産を投げ出したいなどと思うものだろうか?」
「外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護育成すべき宝はない。」
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Ⅰ国民はすべての市民の総和にほかならない
各個人が感じ、考え、行為する通りに国民も感じ、考え、行為する
【私権】に関する市民の権利感覚が、鈍感・臆病・無気力であり、不公正な法律や劣悪な制度に遮られて個人が自分の力を自由に力強く発揮する場がなく、支持と助力を期待してしかるべき場合に迫害が行われ、その結果、不法・無法は耐え忍ぶもの、どうにもならないものだ、という風土が慣れっこになったとするならば、そんなに卑屈な、いじけた、無気力な権利感覚が個人市民=全国民を覆い尽くす。
このような国民が政治的自由の圧殺、憲法の違反ないし破棄、外敵の侵攻によって、全国民の権利が侵害された場合、突如として敏感になり、精力的な行動に転ずるなどとは誰も信じない。勇気をもって自分の権利を守ろうとしたことのない市民が国民全体のためなら喜んで自分の生命・財産を投げ出したいなどと思うものだろうか?
自己の名誉と人格がこうむった理念的損害を意に介さず、不精または臆病のために正当な権利を放棄する者、権利の問題をもっぱら物質的利益の尺度で考える者が、国民全体の権利と名誉にかかわる場合には別の尺度を用い、別の感じ方をするなどと期待することはできない。
未だかって示されたことのない理想主義的な心的態度は、どこからも突然出てくることはない。そんなことはありえない。
憲法上の市民の権利と国際法上の国民の権利は、その権利のための闘争の戦士は、私法上の権利のための闘争の戦士以外の者ではありえない
不法が権利を駆逐した場合、告発されるべきは不法ではなくて、これを許した権利のほうである。『不法をなすなかれ』、および『不法に屈するなかれ』という二つの命題について、社会生活にとってのそれぞれの実務的意義を評価しなければならないとしたら、私は、第一番に挙げられるのは不法に屈するなかれの方であり、不法をなすなかれの方は二番目だ、と言うであろう」
「権利感覚の本質は行為に存するのだから、行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう」。
---
ー私の理論によって批判されるのは、臆病や無精や怠惰によって漫然と不法を
甘受する態度だけである(P15)。
ー他人が出した積極的指示を間違いだとして拒否するだけでは不十分であって、
これに代えて別の積極的指示を与えることが必要なのである(P16)。
ー権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である(P29)。
ー制度を支えるのは歴史の慣性といったものではなく、それぞれに現状を守ろうとする
諸利益が示す抵抗力なのである(P36)。
ー法の理念は永遠の生成に存し、生成したものは新たに生成に席を譲らなければならない(P37)。
ーある国民がみずからの法に注ぎ、みずからの法を貫くための支えとする愛情の力は、
その法を得る為に費やされた努力と苦労の大きさに比例する(P42)。
ー隣国によって一平方マイルの領土を奪われながら膺懲の挙に出ない国は、その他の領土も
奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやまてしまう
であろう(P47)。
ー権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄することは倫理的自殺である(P50)。
ー自己の人格を害するしかたで権利を無視されたものはあらゆる手段で戦うのが、あらゆる者の自分自身に対する義務なのである(P52)。
ー権利のための闘争は個人の課題であるこにとどまらず、発達せる国家においては大幅に国家権力の課題となっているからである(P69)。
ー物と私とを結びつけたのは偶然ではなく、私の意思なのであり、しかもこの意思は、まず持って費やされた私自身ないし他人の労働によって生まれたのである。
私がその物において所有し主張するものは、私自身ないし他人の過去の労働の一部である。
私は、その物をわがものとすることによって、私の人格をこれに刻みつけるのだ。
この物を侵す者は私の人格を侵すことになり、この物に加えられる打撃は物のかたちをとっている私自身に加えられることになる。所有権とは、物の上に拡大された私の人格の外縁にほかならない(P72)。
ー権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自覚することがない。
権利侵略という責め苦にによって問い質されてはじめて、権利感覚の存在と内容が自覚され、真実が顕れるとともに力がしめされるのである(P74)。
ー権利のための闘争は権利者自分自身に対する義務である。。。。。
権利の主張は国家共同体に対する義務である(P79)。
ー実行をともなわない法規範はその名に値せぬ(P80)。
ー不法が権利を駆逐した場合、告発されるべき不法ではなくて、これを許した権利の
ほうである(P84)。
ー攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりでなく、
国家共同体に対する義務である(P85)。
ー憲法上の(国民の)権利と国際法上の(国家の)権利のための闘争の戦士は、
私法上の権利のための闘争の戦士以外の者ではありえないのだ(P105)。
ー権利=法とは理想主義である。それは空想の理想主義ではなく、品格の理想主義である。
つまり、自分を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である。
自分の権利に対して攻撃を加える者が誰であろうと、個人であろうと時刻の政府であろうと外国であろうと、どんな違いがあろうか?攻撃された者が示す抵抗にとって決定的なのは、
加害者が誰であるかではなく、被害者の権利感覚の鋭さ、かれが自己主張するさいの
倫理的な力=士気なのだ(P106)。
ー外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護教育すべき宝はない。国民の権利感覚の涵養を図ることは、国民に対する政治教育最高の、最も重要な課題の一つなのである。国民各個人の健全で力強い権利感覚は、国家にとって、自己の力の最も豊かな源泉であり、対内的・対外的存立の最も確実な保障物である(P108)。
ー歴史はいつでも、大声ではっきりと、こう教えているのだ。国民の力は国民の権利感覚の
力にほかならず、国民の権利感覚の涵養が国家の健康と力の涵養を意味する(P110)。
ー権利の本質は行為に存する(P112)。
ー訴訟に勝つことによって得られるはずの利益は、前者(被害者=原告)にとっては
何の損害も受け得ない状態が回復されるというだけのことだが、後者(加害者=被告)に
とっては相手方の犠牲において儲かる。。。これはまさしく、破廉恥な嘘をつくように
奨励し、裏切り行為に報奨金を出すようなものではなかろうか?
しかし、われわれの現在の法は、まさにこうしたものなのだ(P114)。
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「イギリス人旅行者は、宿屋の主人から高い代金を吹っ掛けようものならまるでイギリス古来の権利を守るかのように断乎としてこれに立ち向かう。(中略)実はイギリス人が守ろうとしているわずか2グルデンの金には、本当に昔ながらのイギリスが含まれているのである。だからこそ、祖国イギリスでは誰でもかれを理解し、したがって気軽に高い代金を吹っ掛けてやろうなどとは思わない」
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権利を侵害されるということは、人格や品格を侵害されることと同じことだ。
権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄することは倫理的自殺である。
私の権利が侵害・否認されれば法一般が侵害・否認され、私の権利が防御・主張・回復されれば法一般が防御・主張・回復される。
権利のための闘争は、国家共同体に対する義務でもある。
不法が権利を駆逐した場合、告発されるべきは不法ではなくて、これを許した権利の方である。」
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権利侵害によって自分自身ないし他人がどんなに大きな苦痛を受けるか経験したことのない者は、「ローマ法大全」の全巻を暗記しているとしても権利の何たるかを知っているとは言えない。理解力ではなく感覚だけが、権利の何たるかを知るために役立つのである。したがつて、すべての権利の心理的源泉が一般に権利感覚と呼ばれているのは、もっともである。これに対して、権利意識とか、権利確信とかいう用語は学者が作った抽象的概念であり、 一般国民には知られていない。権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている。理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない。しかし、愛が往々にして自覚されないままであり、それがはっきり意識されるには一瞬をもって足りるのと同様に、権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自党することがない。権利侵害という責苦によって問い質されてはじめて、権利感覚の存在と内容が自覚され、真実が顕れるとともに力が示されるのである。その真実が何であるかは、すでに述べたとおりである(四九―五〇頁)。― 権利は人格のЪ倫理的生存条件であり、権利の主張は人格自身の倫理的自己保存にほかならない。
権利感覚が自己に加えられた侵害行為に対して実際にどれだけ強く反応するかは、権利感覚の健全さの試金石である。権利感覚がこうむる苦痛の程度は、危険に曝されている価値をどれだけ大きいものと考えていたかを、権利感覚自身に教えてくれる。感じている苦痛を危険から身を守れという警告として受けとめず、苦痛を耐え忍びながら立ち上がらずにいるならば、それは権利感覚をもたないということだ。そうした態度も事情によっては宥恕できる場合があるかもしれない。しかし、それが長続きすれば、権利感覚そのものにとってマイナスにならぎるをえない。けだし、権利感覚の本質は行為に存するのだから。行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう。敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じとる能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感覚の存在を示す二つの標識だと思われる。74p
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