諸悪の根源が正されない日本の裁判所です。
「高裁以下の下級裁判所の合議法廷(通常3人で構成)には合議の秘密があるため、二対一で判断が分かれた場合も、少数意見は明らかにされない。」
ということですが、合議の秘密とは何でしょうか?
このような秘密主義は、裁判の公開原則に反します。憲法82条、市民的政治的権理国際規約 第14条判事の個人の尊重、尊厳に反します。憲法13条
判事個人の表現の自由を侵すものです。憲法21条
自由権規約 市民的政治的権理国際規約 第14条
1 すべての者は、裁判所の前に平等とする。すべての者は、その刑事上の罪の決定又は民事上の権利及び義務の争いについての決定のため、法律で設置された、権限のある、独立の、かつ、公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利を有する。報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序若しくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において裁判所が真に必要があると認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる。もっとも、刑事訴訟又は他の訴訟において言い渡される判決は、少年の利益のために必要がある場合又は当該手続が夫婦間の争い若しくは児童の後見に関するものである場合を除くほか、公開する。
それではなぜ最高裁合議法廷では少数意見が示されるのでしょうか?
それではなぜ地方裁判所、高等裁判所の合議法廷では少数意見が秘密にされなければならないのでしょうか?
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一票の格差が世襲議員を構造化する
実は、世襲議員がはびこる現状を構造的につくりだしてきた一因は、1票の格差の抜本的是正を怠ってきたことにあるのだ。わたしはうかつにも、この両者に因果関係があることに気づかなかった。福田博元最高裁判事の近著『世襲政治家がなぜ生まれるのか?』を読んで、まさに目から鱗が落ちる思いがした。福田は格差を放置してきた政治の不作為ばかりか、それを結果的に正当化してきた最高裁判決をも厳しく指弾する。
1 最高裁判決と反対意見
福田は最高裁判事として、定数訴訟5件の大法廷判決に携わった。福田は外交官出身であって、職業裁判官としてのキャリアはない。最高裁長官と最高裁判事14人のあわせて15人の最高裁裁判官の内訳は、職業裁判官出身者6人、弁護士出身者4人、その他の「学識経験者」5人と事実上ほぼ決まっている。
彼ら15人は5人ずつ三つの小法廷に分属する。上告など最高裁への訴えは、いずれかの小法廷に振り分けられる。ただ、その訴えに違憲判断や判例変更の可能性があるなどの場合は、15人全員で構成される大法廷に回される。これを大法廷回付という。定数訴訟は慣例的に必ず大法廷で審理される。
高裁以下の下級裁判所の合議法廷(通常3人で構成)には合議の秘密があるため、二対一で判断が分かれた場合も、少数意見は明らかにされない。これに対して最高裁では大法廷、小法廷を問わず、意見が分かれた場合は多数意見、反対意見などが顕名で明らかにされる。だれがどの判断に与したかたちどころにわかるのである。福田最高裁判事は5件の定数訴訟で、いずれも違憲とする反対意見を表明した。
この場合、多数意見が依拠するのは「国会の立法裁量権」である。1票の格差が衆院小選挙区で3倍未満、参院選挙区で6倍未満であれば、「国会の立法裁量権の限界を超えるものとはいえず」、合憲とみなされる。しかし、3倍、6倍という数字に合理的根拠はきわめて乏しい。だからこそ、「裁量」に逃げ込むのである。
2 アメリカの「内からの変革」
周知のように、アメリカ大統領選挙は有権者が大統領選挙人を選ぶ間接選挙である。大統領選挙人は州ごとに、それぞれ上院議員と下院議員の合計数が割り当てられる。上院議員は人口にかかわらず各州2名であり、下院議員は人口比で各州の議員数が決められている。その結果、全米一の人口を抱えるカリフォルニア州の大統領選挙人は55名、最小のワイオミング州は3名である。連邦制をとるアメリカでは、上院議員は各州の「大使」的存在であり、一方で下院議員は厳格な格差是正システムの下に置かれている。これを福田は「内からの変革」とよぶ。
具体的には、平均から4%の乖離があれば必ず是正される慣行である。すなわち、総有権者数を選挙区の総数で割って1選挙区あたりの平均の有権者総数を算出する。そして、現実の選挙区の有権者数がその平均値から4%離れると是正措置が行われるのである。
平均から4%の乖離は、日本で一般的な1票の格差という尺度に換算すると1.08倍にすぎない。この徹底ぶりに仰天するのは、わたしたちが二つの選挙区を比較して「較差」をはかる相対的平等論に毒されている証拠である。福田は「投票価値の平等というのは、本来「絶対的平等の概念」です」と述べる。そこから得られる格差是正の原則は、「絶対的な平均値からの乖離」しかありえない。
ところが、日本ではそれを相対的な問題に置き換え、たとえば格差3倍は違憲だが、2倍未満ならばよいと安易に考えがちである。この相対論の横行が日本を「二流の民主主義国」におとしめてきた。後述するように、その論理的帰結が世襲議員の跋扈である。
7 むすびにかえて
わたしたちは民主主義の根幹にかかわる甚大な権利侵害に慣れきってしまっている。投票価値の不平等を放置する現行制度によって、国会に民意が正しく反映されていないことになんの痛痒も感じない。この不感症に「病識」をもつべきなのだ。同時に、この不感症を助長してきた最高裁の姿勢を、厳しく問い直さなければならない。国民審査はそのためにある。イラン大統領選の開票不正が大きく報じられたが、日本ではきわめて巧妙に民意をねじ曲げる「選挙不正」が、見過ごされてきたのではないのか。
「絶対的な平均値からの乖離」を基準に1票の格差を厳格に是正するシステムが確立されれば、「内からの変革」が日本でも実現されよう。これは少しおおげさにいえば、制度化された革命である。選挙区割りが硬直化しないことで、既得権が淘汰され新陳代謝を促進させるシステムがビルトインされる。そこに、むずかしい革命のイデオロギーは不要である。都道府県、市区町村といった行政単位による選挙区割りにこだわらない発想の転換さえあればいい。
日本国憲法43条1項は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と謳っている。国会議員は全国民の代表なのだから。
「高裁以下の下級裁判所の合議法廷(通常3人で構成)には合議の秘密があるため、二対一で判断が分かれた場合も、少数意見は明らかにされない。」
ということですが、合議の秘密とは何でしょうか?
○2 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。
このような秘密主義は、裁判の公開原則に反します。憲法82条、市民的政治的権理国際規約 第14条判事の個人の尊重、尊厳に反します。憲法13条
判事個人の表現の自由を侵すものです。憲法21条
○2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
1 すべての者は、裁判所の前に平等とする。すべての者は、その刑事上の罪の決定又は民事上の権利及び義務の争いについての決定のため、法律で設置された、権限のある、独立の、かつ、公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利を有する。報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序若しくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において裁判所が真に必要があると認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる。もっとも、刑事訴訟又は他の訴訟において言い渡される判決は、少年の利益のために必要がある場合又は当該手続が夫婦間の争い若しくは児童の後見に関するものである場合を除くほか、公開する。
それではなぜ最高裁合議法廷では少数意見が示されるのでしょうか?
裁判所法 第二編 最高裁判所
それではなぜ地方裁判所、高等裁判所の合議法廷では少数意見が秘密にされなければならないのでしょうか?
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一票の格差が世襲議員を構造化する
実は、世襲議員がはびこる現状を構造的につくりだしてきた一因は、1票の格差の抜本的是正を怠ってきたことにあるのだ。わたしはうかつにも、この両者に因果関係があることに気づかなかった。福田博元最高裁判事の近著『世襲政治家がなぜ生まれるのか?』を読んで、まさに目から鱗が落ちる思いがした。福田は格差を放置してきた政治の不作為ばかりか、それを結果的に正当化してきた最高裁判決をも厳しく指弾する。
1 最高裁判決と反対意見
福田は最高裁判事として、定数訴訟5件の大法廷判決に携わった。福田は外交官出身であって、職業裁判官としてのキャリアはない。最高裁長官と最高裁判事14人のあわせて15人の最高裁裁判官の内訳は、職業裁判官出身者6人、弁護士出身者4人、その他の「学識経験者」5人と事実上ほぼ決まっている。
彼ら15人は5人ずつ三つの小法廷に分属する。上告など最高裁への訴えは、いずれかの小法廷に振り分けられる。ただ、その訴えに違憲判断や判例変更の可能性があるなどの場合は、15人全員で構成される大法廷に回される。これを大法廷回付という。定数訴訟は慣例的に必ず大法廷で審理される。
高裁以下の下級裁判所の合議法廷(通常3人で構成)には合議の秘密があるため、二対一で判断が分かれた場合も、少数意見は明らかにされない。これに対して最高裁では大法廷、小法廷を問わず、意見が分かれた場合は多数意見、反対意見などが顕名で明らかにされる。だれがどの判断に与したかたちどころにわかるのである。福田最高裁判事は5件の定数訴訟で、いずれも違憲とする反対意見を表明した。
この場合、多数意見が依拠するのは「国会の立法裁量権」である。1票の格差が衆院小選挙区で3倍未満、参院選挙区で6倍未満であれば、「国会の立法裁量権の限界を超えるものとはいえず」、合憲とみなされる。しかし、3倍、6倍という数字に合理的根拠はきわめて乏しい。だからこそ、「裁量」に逃げ込むのである。
2 アメリカの「内からの変革」
周知のように、アメリカ大統領選挙は有権者が大統領選挙人を選ぶ間接選挙である。大統領選挙人は州ごとに、それぞれ上院議員と下院議員の合計数が割り当てられる。上院議員は人口にかかわらず各州2名であり、下院議員は人口比で各州の議員数が決められている。その結果、全米一の人口を抱えるカリフォルニア州の大統領選挙人は55名、最小のワイオミング州は3名である。連邦制をとるアメリカでは、上院議員は各州の「大使」的存在であり、一方で下院議員は厳格な格差是正システムの下に置かれている。これを福田は「内からの変革」とよぶ。
具体的には、平均から4%の乖離があれば必ず是正される慣行である。すなわち、総有権者数を選挙区の総数で割って1選挙区あたりの平均の有権者総数を算出する。そして、現実の選挙区の有権者数がその平均値から4%離れると是正措置が行われるのである。
平均から4%の乖離は、日本で一般的な1票の格差という尺度に換算すると1.08倍にすぎない。この徹底ぶりに仰天するのは、わたしたちが二つの選挙区を比較して「較差」をはかる相対的平等論に毒されている証拠である。福田は「投票価値の平等というのは、本来「絶対的平等の概念」です」と述べる。そこから得られる格差是正の原則は、「絶対的な平均値からの乖離」しかありえない。
ところが、日本ではそれを相対的な問題に置き換え、たとえば格差3倍は違憲だが、2倍未満ならばよいと安易に考えがちである。この相対論の横行が日本を「二流の民主主義国」におとしめてきた。後述するように、その論理的帰結が世襲議員の跋扈である。
7 むすびにかえて
わたしたちは民主主義の根幹にかかわる甚大な権利侵害に慣れきってしまっている。投票価値の不平等を放置する現行制度によって、国会に民意が正しく反映されていないことになんの痛痒も感じない。この不感症に「病識」をもつべきなのだ。同時に、この不感症を助長してきた最高裁の姿勢を、厳しく問い直さなければならない。国民審査はそのためにある。イラン大統領選の開票不正が大きく報じられたが、日本ではきわめて巧妙に民意をねじ曲げる「選挙不正」が、見過ごされてきたのではないのか。
「絶対的な平均値からの乖離」を基準に1票の格差を厳格に是正するシステムが確立されれば、「内からの変革」が日本でも実現されよう。これは少しおおげさにいえば、制度化された革命である。選挙区割りが硬直化しないことで、既得権が淘汰され新陳代謝を促進させるシステムがビルトインされる。そこに、むずかしい革命のイデオロギーは不要である。都道府県、市区町村といった行政単位による選挙区割りにこだわらない発想の転換さえあればいい。
日本国憲法43条1項は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と謳っている。国会議員は全国民の代表なのだから。
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